ケブラ・ナガスト
『ケブラ・ナガスト』は、古代エチオピアで用いられたゲエズ語で記された、作者不明の重要な文献です。その書名は「王たちの栄光」あるいは「諸王の栄光」と訳され、エチオピアにおける歴史的、文化的、宗教的な基盤を形成する上で中心的な役割を果たしてきました。
本書は主に、古代イスラエルのソロモン王と、南方のシバの女王（エチオピアの伝承ではマーケダーとされる）の間の交渉と関係、そして両者の間に生まれたとされる息子メネリク1世が、イスラエルから聖櫃（契約の箱）をエチオピアにもたらし、ソロモン朝を建国するに至る経緯を描いています。この伝説は、エチオピアの歴代皇帝が自らをソロモン王の子孫と位置づけ、その統治の正統性を主張するための重要な根拠となりました。また、国民全体のアイデンティティの形成や、エチオピア正教会の独自の地位確立にも深く関わっています。しかし、本書はあくまで伝説であり、その物語の歴史的な事実性や、シバの女王自身の存在や出自についても、学術的には様々な議論が存在します。
全117章と奥書からなる内容は、大まかに三つの部分に分けられます。物語は、新約聖書に登場する「南の国の女王」がエチオピアの女王マーケダーであったという教父の言葉から始まります。マーケダー女王がエルサレムを訪問し、ソロモン王の並外れた知恵に感銘を受け、それまでの太陽信仰を捨ててイスラエルの神を信仰するようになります。半年間の滞在の後、帰国を前にした女王はソロモン王と一夜を共にし、身ごもります。帰国後、エチオピアで生まれた子はバイナ・レフケムと名付けられますが、後に「賢者の子」を意味するイブン・アルハキーム、すなわちメネリク1世として知られるようになります。成人したメネリクは父ソロモン王を訪ねてエルサレムで過ごしますが、ソロモン王が彼をエルサレムの王位継承者としようとしたのに対し、メネリクは故郷エチオピアへの帰還を強く望みます。
ソロモン王はメネリクの帰郷を許しますが、この際にイスラエルの最高神官の息子アザールヤースは、突然の帰還命令への不満から、密かに神殿からユダヤの秘宝である聖櫃を持ち出すことを企て、これを成功させます。メネリクは帰国の途上でアザールヤースから聖櫃を受け取り、エチオピアの首都ダブラ・マーケダーに帰還します。ここで彼は母マーケダーから王位を譲られ、紀元前10世紀頃とされるソロモン朝の初代皇帝となります。一方、聖櫃を失ったソロモン王は栄光を失い、イスラエル王国は分裂へと向かいます。物語には、エチオピアの預言者たちによるキリストに関する預言なども含まれています。
『ケブラ・ナガスト』の最も大きな影響は、エチオピア帝国、特に13世紀に成立したソロモン朝の正統性を確立した点にあります。歴代皇帝はメネリク1世を自らの祖先とし、ソロモン家のみが王位を継承できるという君主制の原則を本書によって支えました。エチオピア帝国の憲法にも、メネリク1世が初代皇帝であることが明記されていました。これはエチオピアにおけるナショナリズムや民族的アイデンティティの重要な源泉ともなりました。
しかし、1855年にソロモン家以外のテオドロス2世が即位し、この伝統的なタブーを破ります。彼の治世末期、マグダラの戦いでイギリスに敗れた際、王宮の書庫から『ケブラ・ナガスト』を含む多くの文献がイギリスへ持ち出されました。後を継いだヨハンネス4世は、国内統治のために本書の返還を強く求めました。このことは、ソロモン家以外からの統治者にとっても本書が権威の象徴として不可欠であったことを示唆しています。
本書の成立年代と執筆目的については、現在も学術的な議論が続いています。紀元前5世紀に栄えたアクスム王国時代にもメネリク1世の子孫を名乗る王はいましたが、本書はその時代には存在しなかったと考えられています。一般的には、13世紀にソロモン朝が成立した際に、イクノ・アムラク王の命によって国家事業として編纂されたとする説が有力です。しかし、6世紀から7世紀にかけて成立したとする説も存在し、古代史研究者である蔀勇造氏は、地理的な記述の特徴から6世紀後半にはその中核部分が存在したと推定しています。執筆目的についても、ソロモン朝の正統性確立、カレブ王への賛辞、単性論派信徒の慰撫など、様々な説が提唱されています。また、本書の内容がエチオピア正教会にとって非常に都合が良いため、キリスト教徒以外の勢力によって書かれた可能性も指摘されています。
前述の通り、本書は伝説であり、歴史的事実とは必ずしも一致しません。例えば、第一ニカイア公会議の目的が、史実とは異なり、どのキリスト教国家の王が最も栄光に包まれているかを決定するためであったと記述されている箇所があります。また、アクスム王カレブとビザンツ皇帝がエルサレムで世界を二分したという記述も含まれています。これらの差異は、本書が正統性を強調するために史実とは異なる物語を構成している可能性を示唆しています。
エチオピアは4世紀にキリスト教を受容しましたが、独自の発展を遂げ、エチオピア正教会が成立しました。この教会は、メネリク1世をエチオピア王国の祖と位置づけており、その根拠として『ケブラ・ナガスト』の記述を重視しています。本書は、教会の教義や歴史観に深く根差しており、非常に重要な典拠とされています。
現在、本書の学術的な利用は、1905年にドイツの学者ベッツォルトが出版した校訂本が唯一の底本となっています。この校訂本は複数の手稿を比較検討して作成され、世界各国語に翻訳されており、日本語訳も刊行されています。
本書は主に、古代イスラエルのソロモン王と、南方のシバの女王（エチオピアの伝承ではマーケダーとされる）の間の交渉と関係、そして両者の間に生まれたとされる息子メネリク1世が、イスラエルから聖櫃（契約の箱）をエチオピアにもたらし、ソロモン朝を建国するに至る経緯を描いています。この伝説は、エチオピアの歴代皇帝が自らをソロモン王の子孫と位置づけ、その統治の正統性を主張するための重要な根拠となりました。また、国民全体のアイデンティティの形成や、エチオピア正教会の独自の地位確立にも深く関わっています。しかし、本書はあくまで伝説であり、その物語の歴史的な事実性や、シバの女王自身の存在や出自についても、学術的には様々な議論が存在します。
全117章と奥書からなる内容は、大まかに三つの部分に分けられます。物語は、新約聖書に登場する「南の国の女王」がエチオピアの女王マーケダーであったという教父の言葉から始まります。マーケダー女王がエルサレムを訪問し、ソロモン王の並外れた知恵に感銘を受け、それまでの太陽信仰を捨ててイスラエルの神を信仰するようになります。半年間の滞在の後、帰国を前にした女王はソロモン王と一夜を共にし、身ごもります。帰国後、エチオピアで生まれた子はバイナ・レフケムと名付けられますが、後に「賢者の子」を意味するイブン・アルハキーム、すなわちメネリク1世として知られるようになります。成人したメネリクは父ソロモン王を訪ねてエルサレムで過ごしますが、ソロモン王が彼をエルサレムの王位継承者としようとしたのに対し、メネリクは故郷エチオピアへの帰還を強く望みます。
ソロモン王はメネリクの帰郷を許しますが、この際にイスラエルの最高神官の息子アザールヤースは、突然の帰還命令への不満から、密かに神殿からユダヤの秘宝である聖櫃を持ち出すことを企て、これを成功させます。メネリクは帰国の途上でアザールヤースから聖櫃を受け取り、エチオピアの首都ダブラ・マーケダーに帰還します。ここで彼は母マーケダーから王位を譲られ、紀元前10世紀頃とされるソロモン朝の初代皇帝となります。一方、聖櫃を失ったソロモン王は栄光を失い、イスラエル王国は分裂へと向かいます。物語には、エチオピアの預言者たちによるキリストに関する預言なども含まれています。
『ケブラ・ナガスト』の最も大きな影響は、エチオピア帝国、特に13世紀に成立したソロモン朝の正統性を確立した点にあります。歴代皇帝はメネリク1世を自らの祖先とし、ソロモン家のみが王位を継承できるという君主制の原則を本書によって支えました。エチオピア帝国の憲法にも、メネリク1世が初代皇帝であることが明記されていました。これはエチオピアにおけるナショナリズムや民族的アイデンティティの重要な源泉ともなりました。
しかし、1855年にソロモン家以外のテオドロス2世が即位し、この伝統的なタブーを破ります。彼の治世末期、マグダラの戦いでイギリスに敗れた際、王宮の書庫から『ケブラ・ナガスト』を含む多くの文献がイギリスへ持ち出されました。後を継いだヨハンネス4世は、国内統治のために本書の返還を強く求めました。このことは、ソロモン家以外からの統治者にとっても本書が権威の象徴として不可欠であったことを示唆しています。
本書の成立年代と執筆目的については、現在も学術的な議論が続いています。紀元前5世紀に栄えたアクスム王国時代にもメネリク1世の子孫を名乗る王はいましたが、本書はその時代には存在しなかったと考えられています。一般的には、13世紀にソロモン朝が成立した際に、イクノ・アムラク王の命によって国家事業として編纂されたとする説が有力です。しかし、6世紀から7世紀にかけて成立したとする説も存在し、古代史研究者である蔀勇造氏は、地理的な記述の特徴から6世紀後半にはその中核部分が存在したと推定しています。執筆目的についても、ソロモン朝の正統性確立、カレブ王への賛辞、単性論派信徒の慰撫など、様々な説が提唱されています。また、本書の内容がエチオピア正教会にとって非常に都合が良いため、キリスト教徒以外の勢力によって書かれた可能性も指摘されています。
前述の通り、本書は伝説であり、歴史的事実とは必ずしも一致しません。例えば、第一ニカイア公会議の目的が、史実とは異なり、どのキリスト教国家の王が最も栄光に包まれているかを決定するためであったと記述されている箇所があります。また、アクスム王カレブとビザンツ皇帝がエルサレムで世界を二分したという記述も含まれています。これらの差異は、本書が正統性を強調するために史実とは異なる物語を構成している可能性を示唆しています。
エチオピアは4世紀にキリスト教を受容しましたが、独自の発展を遂げ、エチオピア正教会が成立しました。この教会は、メネリク1世をエチオピア王国の祖と位置づけており、その根拠として『ケブラ・ナガスト』の記述を重視しています。本書は、教会の教義や歴史観に深く根差しており、非常に重要な典拠とされています。
現在、本書の学術的な利用は、1905年にドイツの学者ベッツォルトが出版した校訂本が唯一の底本となっています。この校訂本は複数の手稿を比較検討して作成され、世界各国語に翻訳されており、日本語訳も刊行されています。
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