ネペレー
ネペレー（古希: Νεφέλη）は、古代ギリシアの神話世界に現れる存在で、雲を司るニュムペー、あるいは女神と伝えられています。その名はギリシア語で「雲」を意味し、彼女の本質そのものを示唆しています。
ネペレーの誕生は、神々の王ゼウスがある特定の目的のために生み出したという、神話の中でも珍しい経緯を持ちます。その目的とは、血縁者を殺した罪をゼウスによって浄化され、神々の宴に招かれるという破格の恩恵を受けた人間、イクシーオーンを罰することにありました。しかし、イクシーオーンはその厚遇に報いるどころか、ゼウスの妃である女神ヘーラーに対し、不遜にも横恋慕し、言い寄るという行為に及びました。イクシーオーンの好意に悩んだヘーラーがゼウスに打ち明けると、ゼウスはイクシーオーンの真意と傲慢さを試すため、雲を用いてヘーラーの姿にそっくりなネペレーを創り出しました。そしてネペレーをイクシーオーンの寝所へと送り込むと、イクシーオーンはこれを本物のヘーラーだと錯覚し、ネペレーと関係を持ったのです。この自惚れた行動を見届けたゼウスは激怒し、イクシーオーンを永遠に回り続ける四本の輻を持つ車輪に縛り付け、天上をさまようという恐ろしい罰を与えました。
この、ゼウスの計略によって生まれたネペレーと人間のイクシーオーンとの間の交わりから、野性的で恐れられた存在であるケンタウロス族が生まれたと伝えられています。そのため、ケンタウロス族の一部、例えばエウリュティオーンやネッソスは、ネペレーとイクシーオーンの子供だとされることがあります。ケンタウロス族の誕生については複数の伝承が存在し、詩人ピンダロスは、ネペレーが一人だけ子供を産み、その子に「ケンタウロス」という名を与えたと述べています。このケンタウロスが、テッサリアー地方のペーリオン山で牝馬たちと交わった結果、上半身が人間、下半身が馬の姿を持つケンタウロス族が誕生したとしています。また、歴史家ディオドーロスによると、ネペレーが生んだのは人間の性質を備えた「ケンタウロイ族」であり、彼らはペーリオン山でニュムペーたちに育てられた後、牝馬と交わって馬と人間の性質を併せ持つ「ヒッポケンタウロイ族」を生んだと記されています。さらに、ネペレーを作り出したのはヘーラー自身であるという異説や、悲劇詩人オウィディウスの作品中では、ケンタウロス族の母がヘーラー自身であると語られる場面も見られます。
イクシーオーンとの関係の後、ネペレーはテッサリアー地方のオルコメノスを治めるアタマース王と結婚しました。アタマースはアイオロスの子孫です。ネペレーはアタマースとの間に、息子プリクソスと娘ヘレーという二人の子供を授かります。しかし、アタマースは後にネペレーを離別し、テーバイのカドモス王の娘イーノーと再婚します。この後妻イーノーは、前妻ネペレーの子であるプリクソスとヘレーに対し敵意を抱き、彼らを排除しようと陰謀を企てました。イーノーはオルコメノスの地に旱魃をもたらすよう仕向け、その旱魃を鎮めるためには王の子供たちを生贄に捧げる必要があるという偽の神託を作り上げたのです。子供たちの危機を察した母ネペレーは、間一髪のところでプリクソスとヘレーを救い出しました。彼女は神使ヘルメースから授けられたという、空を自由に飛ぶことができる特別な金色の毛を持つ羊を子供たちに与え、この羊の背に乗せてオルコメノスから遠い異国へと逃がそうとしました。しかし、逃亡の途上、ヘレーは羊の背からバランスを崩して落下し、海に溺れて命を落としてしまいます。このヘレーが落ちた海峡は、以来「ヘレーの海」を意味するヘレースポントス（現在のダーダネルス海峡）という地名で呼ばれるようになりました。一方、プリクソスは無事に遥か東方の地、コルキスへとたどり着き、自分を救ってくれた金毛羊を最高神ゼウスに感謝の供物として捧げました。このコルキスにもたらされた金毛羊の毛皮（金羊毛）は、後にギリシアの英雄イアーソーンが率いるアルゴナウタイの大冒険の究極の目的となります。また、この金毛羊の物語は、夜空に輝くおひつじ座の起源としても語り継がれています。
古代ギリシアの三大悲劇詩人の一人であるソポクレースが著した、現存しない悲劇『アタマース』においては、ネペレーは単なる精霊ではなく、女神として描かれていたと推測されています。この作品では、アタマースが女神であるネペレーを捨てて人間の女性イーノーと結婚したことに対し、ネペレーは激しく怒り、天上へと去ってオルコメノスに深刻な旱魃をもたらしたと描かれています。イーノーは、この旱魃を利用してネペレーの子であるプリクソスとヘレーを生贄にしようと画策しますが、子供たちは人語を理解し話す不思議な羊の予言によって危険を察知し、逃れることができたとされます。また、ネペレーはアタマースにその罪を償わせようとしますが、アタマースはゼウスの祭壇で殺されそうになったところを、大英雄ヘーラクレースに救われたとも語られています。
神話学的な解釈においても、ネペレーは興味深い視点を提供しています。例えば、神話学者ジョルジュ・ドゥヴルーは、アポロドーロスがイーノーによるネペレーの子殺害計画の直後に、ヘーラーがアタマースとイーノーを狂気に陥らせたことに言及している点に注目しました。一般的にヘーラーの怒りはアタマースたちが幼いディオニューソスを養育したことに起因するとされますが、アポロドーロスの記述ではその理由がディオニューソスであるとは明記されていません。ドゥヴルーはこの点から、ヘーラーの怒りがむしろ、イーノーとアタマースがネペレーの子供たちを害しようとした行為に向けられた可能性を指摘し、アタマースの物語におけるネペレーとヘーラーの間に密接な関係があることを論じました。彼は、ネペレーがヘーラーの分身とも言うべき存在であり、ヘーラーはネペレーに加えられた屈辱に対して、まるで自分自身のことのように怒りを感じていたのではないかと推測しています。また、イギリスの詩人であり神話研究家であるロバート・グレーヴスは、アタマースの二人の妻、先妻ネペレーと後妻イーノーの間の争いを、古代ギリシアにおける異なる文化や信仰の対立を象徴的に描いたものと解釈しています。グレーヴスによれば、これは後から侵入してきた牧畜民であるアイオリス人の信仰と、古くからその地に住み着き、穀物の女神イーノーを信仰していた先住民であるイオニア人の信仰との間の衝突が反映されたものであるとしています。
ネペレーは、その特異な誕生から始まり、イクシーオーンへの罰、ケンタウロス族の起源、そしてプリクソスとヘレーという子供たちの悲劇的な運命、さらには金毛羊を巡る壮大なアルゴナウタイの冒険へと繋がる重要な要素となるなど、ギリシア神話の複数の核心的な出来事に深く関わっており、物語全体の中で決定的な役割を果たした存在と言えるでしょう。
ネペレーの誕生は、神々の王ゼウスがある特定の目的のために生み出したという、神話の中でも珍しい経緯を持ちます。その目的とは、血縁者を殺した罪をゼウスによって浄化され、神々の宴に招かれるという破格の恩恵を受けた人間、イクシーオーンを罰することにありました。しかし、イクシーオーンはその厚遇に報いるどころか、ゼウスの妃である女神ヘーラーに対し、不遜にも横恋慕し、言い寄るという行為に及びました。イクシーオーンの好意に悩んだヘーラーがゼウスに打ち明けると、ゼウスはイクシーオーンの真意と傲慢さを試すため、雲を用いてヘーラーの姿にそっくりなネペレーを創り出しました。そしてネペレーをイクシーオーンの寝所へと送り込むと、イクシーオーンはこれを本物のヘーラーだと錯覚し、ネペレーと関係を持ったのです。この自惚れた行動を見届けたゼウスは激怒し、イクシーオーンを永遠に回り続ける四本の輻を持つ車輪に縛り付け、天上をさまようという恐ろしい罰を与えました。
この、ゼウスの計略によって生まれたネペレーと人間のイクシーオーンとの間の交わりから、野性的で恐れられた存在であるケンタウロス族が生まれたと伝えられています。そのため、ケンタウロス族の一部、例えばエウリュティオーンやネッソスは、ネペレーとイクシーオーンの子供だとされることがあります。ケンタウロス族の誕生については複数の伝承が存在し、詩人ピンダロスは、ネペレーが一人だけ子供を産み、その子に「ケンタウロス」という名を与えたと述べています。このケンタウロスが、テッサリアー地方のペーリオン山で牝馬たちと交わった結果、上半身が人間、下半身が馬の姿を持つケンタウロス族が誕生したとしています。また、歴史家ディオドーロスによると、ネペレーが生んだのは人間の性質を備えた「ケンタウロイ族」であり、彼らはペーリオン山でニュムペーたちに育てられた後、牝馬と交わって馬と人間の性質を併せ持つ「ヒッポケンタウロイ族」を生んだと記されています。さらに、ネペレーを作り出したのはヘーラー自身であるという異説や、悲劇詩人オウィディウスの作品中では、ケンタウロス族の母がヘーラー自身であると語られる場面も見られます。
イクシーオーンとの関係の後、ネペレーはテッサリアー地方のオルコメノスを治めるアタマース王と結婚しました。アタマースはアイオロスの子孫です。ネペレーはアタマースとの間に、息子プリクソスと娘ヘレーという二人の子供を授かります。しかし、アタマースは後にネペレーを離別し、テーバイのカドモス王の娘イーノーと再婚します。この後妻イーノーは、前妻ネペレーの子であるプリクソスとヘレーに対し敵意を抱き、彼らを排除しようと陰謀を企てました。イーノーはオルコメノスの地に旱魃をもたらすよう仕向け、その旱魃を鎮めるためには王の子供たちを生贄に捧げる必要があるという偽の神託を作り上げたのです。子供たちの危機を察した母ネペレーは、間一髪のところでプリクソスとヘレーを救い出しました。彼女は神使ヘルメースから授けられたという、空を自由に飛ぶことができる特別な金色の毛を持つ羊を子供たちに与え、この羊の背に乗せてオルコメノスから遠い異国へと逃がそうとしました。しかし、逃亡の途上、ヘレーは羊の背からバランスを崩して落下し、海に溺れて命を落としてしまいます。このヘレーが落ちた海峡は、以来「ヘレーの海」を意味するヘレースポントス（現在のダーダネルス海峡）という地名で呼ばれるようになりました。一方、プリクソスは無事に遥か東方の地、コルキスへとたどり着き、自分を救ってくれた金毛羊を最高神ゼウスに感謝の供物として捧げました。このコルキスにもたらされた金毛羊の毛皮（金羊毛）は、後にギリシアの英雄イアーソーンが率いるアルゴナウタイの大冒険の究極の目的となります。また、この金毛羊の物語は、夜空に輝くおひつじ座の起源としても語り継がれています。
古代ギリシアの三大悲劇詩人の一人であるソポクレースが著した、現存しない悲劇『アタマース』においては、ネペレーは単なる精霊ではなく、女神として描かれていたと推測されています。この作品では、アタマースが女神であるネペレーを捨てて人間の女性イーノーと結婚したことに対し、ネペレーは激しく怒り、天上へと去ってオルコメノスに深刻な旱魃をもたらしたと描かれています。イーノーは、この旱魃を利用してネペレーの子であるプリクソスとヘレーを生贄にしようと画策しますが、子供たちは人語を理解し話す不思議な羊の予言によって危険を察知し、逃れることができたとされます。また、ネペレーはアタマースにその罪を償わせようとしますが、アタマースはゼウスの祭壇で殺されそうになったところを、大英雄ヘーラクレースに救われたとも語られています。
神話学的な解釈においても、ネペレーは興味深い視点を提供しています。例えば、神話学者ジョルジュ・ドゥヴルーは、アポロドーロスがイーノーによるネペレーの子殺害計画の直後に、ヘーラーがアタマースとイーノーを狂気に陥らせたことに言及している点に注目しました。一般的にヘーラーの怒りはアタマースたちが幼いディオニューソスを養育したことに起因するとされますが、アポロドーロスの記述ではその理由がディオニューソスであるとは明記されていません。ドゥヴルーはこの点から、ヘーラーの怒りがむしろ、イーノーとアタマースがネペレーの子供たちを害しようとした行為に向けられた可能性を指摘し、アタマースの物語におけるネペレーとヘーラーの間に密接な関係があることを論じました。彼は、ネペレーがヘーラーの分身とも言うべき存在であり、ヘーラーはネペレーに加えられた屈辱に対して、まるで自分自身のことのように怒りを感じていたのではないかと推測しています。また、イギリスの詩人であり神話研究家であるロバート・グレーヴスは、アタマースの二人の妻、先妻ネペレーと後妻イーノーの間の争いを、古代ギリシアにおける異なる文化や信仰の対立を象徴的に描いたものと解釈しています。グレーヴスによれば、これは後から侵入してきた牧畜民であるアイオリス人の信仰と、古くからその地に住み着き、穀物の女神イーノーを信仰していた先住民であるイオニア人の信仰との間の衝突が反映されたものであるとしています。
ネペレーは、その特異な誕生から始まり、イクシーオーンへの罰、ケンタウロス族の起源、そしてプリクソスとヘレーという子供たちの悲劇的な運命、さらには金毛羊を巡る壮大なアルゴナウタイの冒険へと繋がる重要な要素となるなど、ギリシア神話の複数の核心的な出来事に深く関わっており、物語全体の中で決定的な役割を果たした存在と言えるでしょう。
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