ハーバート・ブラウン
ハーバート・チャールズ・ブラウン（Herbert Charles Brown, 1912-2004）は、20世紀後半の有機化学において極めて重要な貢献を果たしたアメリカ合衆国の化学者である。特に有機ホウ素化学の分野を大きく発展させ、合成化学に革命をもたらした功績が称えられ、1979年にゲオルク・ウィッティヒと共にノーベル化学賞を受賞した。ウクライナ系ユダヤ人移民の子としてロンドンに生まれ、幼少期にアメリカへ移住し、その生涯を活発な研究活動に捧げた。
1912年5月22日、イギリスのロンドンにて生を受けたブラウンは、生まれた時はハーバート・ブロヴァルニクという名前であった。両親はロシア帝国（現在のウクライナ）のジトーミルからのユダヤ系移民であった。生後わずか2年の1914年6月、一家と共にアメリカ合衆国へと渡った。シカゴで育ち、1935年にシカゴ大学に入学。翌1936年には学士号を取得し、同時にアメリカ市民権を得て帰化した。さらに研究を進め、1938年に化学の分野でPh.D.を取得した。博士課程修了後、ウェイン州立大学で教鞭を執った後、1947年にパデュー大学に迎えられ、化学科の教授に就任した。パデュー大学では、1978年に退官するまで長きにわたり教育と研究の中心人物として活躍し、退官後も名誉教授として死去するまで大学との関わりを保った。彼の偉業を記念し、現在もパデュー大学には彼の名を冠した「ハーバート・C・ブラウン化学研究室」が存在する。
ブラウンの最も著名な業績は、有機ホウ素化合物の化学、特にヒドロホウ素化反応に関するものである。彼の研究は、第二次世界大戦中に軍からの要請で始まった、持ち運び可能な水素源の開発依頼がきっかけであった。この過程で、水素化ホウ素ナトリウム（NaBH4）の効率的な合成法を確立した。興味深いことに、彼は偶然にもNaBH4がアルデヒドやケトンを選択的にアルコールへと還元する能力を持つことを発見した。この発見は、彼のその後の研究、特に還元反応に関する探求の出発点となった。NaBH4に加えて、より強力な還元剤である水素化アルミニウムリチウム（LiAlH4）の開発にも貢献した。そして、アルケンやアルキンにボラン（BH3）が付加する「ヒドロホウ素化反応」を発見したことは、合成化学における画期的な出来事であった。この反応は、炭素骨格への新たな官能基導入を可能にし、温和な条件下で進行するため、多くの有機合成経路において不可欠なステップとなった。さらに、彼はヒドロホウ素化反応の立体選択性や位置選択性を詳細に研究し、不斉合成への応用も開拓した。彼の開発した手法の多くは、今日の有機合成化学の基礎をなすものとして、広く利用されている。ブラウンは92歳でこの世を去るまで、約66年間にわたり第一線の化学者として精力的に研究活動を続け、1300報近い学術論文を発表した。
ブラウンが有機ホウ素化学の道に進んだきっかけは、ユニークなものであった。大学時代、後に妻となるガールフレンドのサラからプレゼントされた一冊の化学書が、その後のキャリアの方向を決定づけたという。サラがその本を選んだ理由は、書店にあった化学書の中で最も安かったからだという逸話が残っている。しかし、ブラウン自身はこれを単なる偶然とは見ていなかったようで、「私はもともと有機ホウ素化学を始める運命にあった。私のイニシャル（HCB）は、水素（H）と炭素（C）の化学にホウ素（B）を持ち込むという運命を示していたのだろう」と語っている。私生活においては、研究に集中するため、家計の管理や庭の手入れといった一切合切を妻サラに任せきりであったという。ノーベル賞を受賞し、ストックホルムからの帰路についた際には、ブラウンがノーベル賞のメダルを運び、妻サラが賞金の10万ドルを運んだという有名なエピソードがある。また、彼は学術的な論争も辞さない人物であった。ソール・ウィンスタインらが提唱した非古典的カルボカチオン説に対しては強く反対し、ジョージ・オラーらによってこの説が実験的に立証される1980年代まで、活発な論争を繰り広げた。教育者としても多くの優れた化学者を育てた。特に、2010年に自身と同じノーベル化学賞を受賞した根岸英一博士と鈴木章博士は、パデュー大学留学中にブラウンの研究室で指導を受けた門下生にあたる。ブラウンは、2002年に行われた90歳の誕生日を祝う講演会の中で、将来のノーベル賞受賞者候補として、門下生である鈴木博士と根岸博士の両名を推薦すると公言していた。パデュー大学は彼の功績を讃え、「ハーバート・C・ブラウン化学研究室特別教授」というポストを設け、現在は根岸英一博士がその職にある。
ブラウンはその卓越した研究成果に対して、数多くの権威ある賞を受賞している。主要なものとしては、1955年のセンテナリー賞、1959年のウィリアム・H・ニコルズ賞、1961年のレムセン賞、1968年のライナス・ポーリング賞、1969年のアメリカ国家科学賞、1971年のロジャー・アダムス賞、1975年の化学パイオニア賞、1978年のエリオット・クレッソン・メダル、そして最大の栄誉である1979年のノーベル化学賞（ゲオルク・ウィッティヒと共同）が挙げられる。その後も、1981年にはプリーストリー賞、1982年にはパーキンメダル、1985年にはアメリカ化学者協会ゴールドメダル、1987年には米国科学アカデミー賞化学部門を受賞するなど、晩年までその功績は高く評価され続けた。
ハーバート・チャールズ・ブラウン博士は、2004年12月19日、インディアナ州ラファイエットの病院で心臓麻痺のため92歳で死去した。彼の息子と孫娘が存命である。有機ホウ素化学という新たな分野を切り開き、合成化学に不可欠なツールを提供した彼の研究は、現代化学の発展に計り知れない影響を与えた。教育者としても次世代のノーベル賞受賞者を育成するなど、その貢献は多岐にわたる。彼の確立した反応や概念は、現在も世界中の研究者によって利用されており、その遺産は化学の世界に深く根付いている。
1912年5月22日、イギリスのロンドンにて生を受けたブラウンは、生まれた時はハーバート・ブロヴァルニクという名前であった。両親はロシア帝国（現在のウクライナ）のジトーミルからのユダヤ系移民であった。生後わずか2年の1914年6月、一家と共にアメリカ合衆国へと渡った。シカゴで育ち、1935年にシカゴ大学に入学。翌1936年には学士号を取得し、同時にアメリカ市民権を得て帰化した。さらに研究を進め、1938年に化学の分野でPh.D.を取得した。博士課程修了後、ウェイン州立大学で教鞭を執った後、1947年にパデュー大学に迎えられ、化学科の教授に就任した。パデュー大学では、1978年に退官するまで長きにわたり教育と研究の中心人物として活躍し、退官後も名誉教授として死去するまで大学との関わりを保った。彼の偉業を記念し、現在もパデュー大学には彼の名を冠した「ハーバート・C・ブラウン化学研究室」が存在する。
ブラウンの最も著名な業績は、有機ホウ素化合物の化学、特にヒドロホウ素化反応に関するものである。彼の研究は、第二次世界大戦中に軍からの要請で始まった、持ち運び可能な水素源の開発依頼がきっかけであった。この過程で、水素化ホウ素ナトリウム（NaBH4）の効率的な合成法を確立した。興味深いことに、彼は偶然にもNaBH4がアルデヒドやケトンを選択的にアルコールへと還元する能力を持つことを発見した。この発見は、彼のその後の研究、特に還元反応に関する探求の出発点となった。NaBH4に加えて、より強力な還元剤である水素化アルミニウムリチウム（LiAlH4）の開発にも貢献した。そして、アルケンやアルキンにボラン（BH3）が付加する「ヒドロホウ素化反応」を発見したことは、合成化学における画期的な出来事であった。この反応は、炭素骨格への新たな官能基導入を可能にし、温和な条件下で進行するため、多くの有機合成経路において不可欠なステップとなった。さらに、彼はヒドロホウ素化反応の立体選択性や位置選択性を詳細に研究し、不斉合成への応用も開拓した。彼の開発した手法の多くは、今日の有機合成化学の基礎をなすものとして、広く利用されている。ブラウンは92歳でこの世を去るまで、約66年間にわたり第一線の化学者として精力的に研究活動を続け、1300報近い学術論文を発表した。
ブラウンが有機ホウ素化学の道に進んだきっかけは、ユニークなものであった。大学時代、後に妻となるガールフレンドのサラからプレゼントされた一冊の化学書が、その後のキャリアの方向を決定づけたという。サラがその本を選んだ理由は、書店にあった化学書の中で最も安かったからだという逸話が残っている。しかし、ブラウン自身はこれを単なる偶然とは見ていなかったようで、「私はもともと有機ホウ素化学を始める運命にあった。私のイニシャル（HCB）は、水素（H）と炭素（C）の化学にホウ素（B）を持ち込むという運命を示していたのだろう」と語っている。私生活においては、研究に集中するため、家計の管理や庭の手入れといった一切合切を妻サラに任せきりであったという。ノーベル賞を受賞し、ストックホルムからの帰路についた際には、ブラウンがノーベル賞のメダルを運び、妻サラが賞金の10万ドルを運んだという有名なエピソードがある。また、彼は学術的な論争も辞さない人物であった。ソール・ウィンスタインらが提唱した非古典的カルボカチオン説に対しては強く反対し、ジョージ・オラーらによってこの説が実験的に立証される1980年代まで、活発な論争を繰り広げた。教育者としても多くの優れた化学者を育てた。特に、2010年に自身と同じノーベル化学賞を受賞した根岸英一博士と鈴木章博士は、パデュー大学留学中にブラウンの研究室で指導を受けた門下生にあたる。ブラウンは、2002年に行われた90歳の誕生日を祝う講演会の中で、将来のノーベル賞受賞者候補として、門下生である鈴木博士と根岸博士の両名を推薦すると公言していた。パデュー大学は彼の功績を讃え、「ハーバート・C・ブラウン化学研究室特別教授」というポストを設け、現在は根岸英一博士がその職にある。
ブラウンはその卓越した研究成果に対して、数多くの権威ある賞を受賞している。主要なものとしては、1955年のセンテナリー賞、1959年のウィリアム・H・ニコルズ賞、1961年のレムセン賞、1968年のライナス・ポーリング賞、1969年のアメリカ国家科学賞、1971年のロジャー・アダムス賞、1975年の化学パイオニア賞、1978年のエリオット・クレッソン・メダル、そして最大の栄誉である1979年のノーベル化学賞（ゲオルク・ウィッティヒと共同）が挙げられる。その後も、1981年にはプリーストリー賞、1982年にはパーキンメダル、1985年にはアメリカ化学者協会ゴールドメダル、1987年には米国科学アカデミー賞化学部門を受賞するなど、晩年までその功績は高く評価され続けた。
ハーバート・チャールズ・ブラウン博士は、2004年12月19日、インディアナ州ラファイエットの病院で心臓麻痺のため92歳で死去した。彼の息子と孫娘が存命である。有機ホウ素化学という新たな分野を切り開き、合成化学に不可欠なツールを提供した彼の研究は、現代化学の発展に計り知れない影響を与えた。教育者としても次世代のノーベル賞受賞者を育成するなど、その貢献は多岐にわたる。彼の確立した反応や概念は、現在も世界中の研究者によって利用されており、その遺産は化学の世界に深く根付いている。
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