ピアノ三重奏曲 (フォーレ)

フォーレ：ピアノ三重奏曲 ニ短調 作品120

フランス近代の巨匠、ガブリエル・フォーレ（1845-1924）がその最晩年に作曲した室内楽作品の一つに、ピアノ三重奏曲 ニ短調 作品120があります。ピアノ、ヴァイオリン、そしてチェロのために書かれたこの楽曲は、フォーレの創作活動の最終期、1922年9月から1923年2月にかけて生み出されました。全3楽章構成で、演奏時間は約20分です。

作曲への道のり

このピアノ三重奏曲の作曲は、1922年1月、フォーレが南仏ニースに滞在中に、出版契約を結んでいたデュラン社の社主ジャック・デュランの提案から始まりました。デュランは、モーリス・ラヴェルの同時期に書かれたピアノ三重奏曲（1914年作曲）のような作品をフォーレに期待していたと言われています。

しかし、この頃のフォーレは深刻なスランプに陥っていました。フランスの著名なフォーレ研究家であるジャン＝ミシェル・ネクトゥーは、この年の初めから夏にかけて、フォーレの創作意欲が完全に失われていたと指摘しています。1月には妻マリーに「今の状態が長続きしないことを願っている。なぜなら、私は猛烈に仕事をしたいのだ」と焦る気持ちを伝え、2月には「老いよ、消え失せろ！」と自らを鼓舞する手紙を送っています。しかし、3月になると「毎日をわらじ虫のように家に閉じこもって過ごし、全く何もしていない。書く価値のある音符を一つも見つけられない。私の才能は枯れてしまったのだろうか」と深い悩みを打ち明けるようになります。友人の作曲家ポール・デュカスへの手紙でも、ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』を引用しつつ、「この4ヶ月でワーグナーのグルペット並みに年を取った」と、ユーモアを交えながらも自嘲気味に語っています。

さらに、長年苦しめられていた聴覚障害に加え、視力の衰えや歯の不調も重なり、フォーレは次第に孤独を深めていました。彼の次男フィリップ・フォーレ＝フレミエは、この時期の父の苦悩について回想しています。

着手から完成まで

ようやく新作のスケッチに取りかかれたのは、1922年4月にパリへ戻って以降、5月から6月にかけてのことと考えられています。7月には故郷に近いアルジュレスに約1ヶ月滞在しますが、気管支肺炎を患い、この地での作業はほとんど進みませんでした。この時、パリの自宅の机に忘れてきた原稿（後に第2楽章中間部のスケッチと判明）を次男に探すよう頼んでいます。

8月9日からはアヌシー＝ル＝ヴューのデュナン館へ移り、約2ヶ月を過ごしました。ここは1919年以来の滞在地でした。8月26日にはフォーレ・フェスティバルが開催され、翌日には教会で『小ミサ曲』が演奏されるなど温かく迎えられ、ここでフォーレの創作力が回復したと見られています。彼は妻に「アヌシーへ来てからずっと仕事をしている。良い気分だ」と報告しています。

アヌシー＝ル＝ヴューで書かれたのは主に第2楽章と考えられています。第1楽章と第3楽章は、10月にパリに戻った後、ヴィーニュ通りの自宅で作曲され、作品全体が1923年2月中旬に完成しました。この間、1923年1月にはレジオンドヌール勲章（勲一等）を授与されています。

初演と出版

作品は完成後間もなく、1923年5月12日、フォーレ78歳の誕生日に国民音楽協会の演奏会で初演されました。演奏は、ヴァイオリンがロベール・クレットリー、チェロがジャック・パッテ、ピアノがタチアナ・ド＝サンセヴィッチと、いずれもパリ音楽院を卒業した若手演奏家たちでした。フォーレは自身の音楽が若い世代に受け入れられることを喜びとしており、この人選は彼の意向を反映したものでした。この演奏会では、フォーレの歌曲集『優しい歌』も披露されましたが、フォーレ自身は体調不良のため欠席しました。

公開初演に先立つ1923年4月には、パリのマイヨ家のサロンで友人たちのための試演が行われています。次男フィリップは、アヌシー＝ル＝ヴューでのマイヨ夫妻の歓待に感謝して、フォーレが夫人に「この曲はあなた方のお宅だからこそ完成できた作品なのです」と微笑んで語ったというエピソードを伝えています。

初演から約1ヶ月半後の6月29日には、エコールノルマル音楽院にて、ジャック・ティボー（ヴァイオリン）、パブロ・カザルス（チェロ）、アルフレッド・コルトー（ピアノ）という当代最高の演奏家たち（カザルス三重奏団）によって再演されました。フォーレはこのリハーサルに立ち会うことができました。ネクトゥーによれば、この再演はより輝かしいもので、聴衆からは「もし彼が100歳まで生きたら、どのような音楽を書くのだろうか」といった感嘆の声が聞かれたそうです。

楽譜は1923年にデュラン社から出版され、作品はモーリス・ルーヴィエ夫人に献呈されました。なお、この作品の自筆譜は現在まで発見されていません。

作品の特徴

ピアノ三重奏曲 作品120は、フォーレの創作活動を三期に分けた場合、最も円熟した第三期に属する作品であり、その最晩年、肉体的な衰えと絶え間ない疲労に苦しみながら生み出されました。ネクトゥーは、一つ前の夜想曲第13番（作品119）の完成をもってフォーレの生涯の最重要期が終わったとし、1922年以降は筆が進みにくくなったが、作品の質は保たれたまま数は減少したと述べています。事実、彼の最後の3年間で完成したのは、このピアノ三重奏曲と、未完成に終わった弦楽四重奏曲のみです。

この作品は、ラヴェルの同編成作品（1914年）と並んで、当時のフランスにおけるピアノ三重奏曲を代表する傑作と位置づけられています。

音楽的には、全体を通して「線の強い」表現が特徴であり、簡潔さを極めた書法は、この時期の他のフォーレ作品に共通するものです。フォーレ自身はこの曲を控えめに「小さなトリオ」と呼んでいます。弟子のフローラン・シュミットは、「これこそ音楽であり、音楽以外の何ものでもない。ラモーのような繊細さ、バッハのような透明で力強い響き、そして穏やかな訴えかけはフォーレそのものだ」と称賛しています。

音楽評論家ロナルド・クライトンは、この三重奏曲が感情を率直に表現しており、晩年の作品としては珍しく半音階が少なく全音階的である点を指摘しています。また、モーツァルトに通じる透明性や緊密さはチェロソナタ第2番に似ているとしつつも、素材はより豊富であると評価しています。彼がこの曲が忘れられがちな理由として挙げているのは、書法の地味さや、ラヴェルのような異国情緒の欠如です。

日本の音楽学者、平島三郎は、この作品の音域が若い頃の作品に比べてかなり狭くなっている点に注目し、60歳頃に発症し悪化した聴覚障害の影響がある可能性を示唆しています。しかし同時に、「音楽家にとって致命的な障害を克服して、これらの作品が驚くべき完成を見出していること」を強調しています。

作曲時にクラリネットを含む三重奏を構想していた可能性も示唆されていますが、最終的に実現しませんでした。しかし、フォーレはクラリネットの音色を好んでおり、ネクトゥーはヴァイオリンをクラリネットに置き換えても問題なく、むしろ特別な性格を持つ対話が生まれると述べており、近年行われた試演でもその有効性が確認されています。

各楽章の解説

全体の雰囲気は比較的穏やかで、どこか哀愁を帯びた淡い色彩を思わせます。

第1楽章：アレグロ・マ・ノン・トロッポ、ニ短調、3/4拍子

ソナタ形式。ピアノの静かな導入に続き、チェロが穏やかな第1主題を奏で、ヴァイオリンに引き継がれます。明快な書法と形式を持つこの楽章について、ハリー・ハルブライヒは「地上的な情熱から遠い、澄み渡った明るさ」と評し、ネクトゥーは「フォーレ作品でも群を抜く透明感と、言葉にできない優しさを秘めた輝きに満ちている」と述べています。展開部では主題が対位法的に絡み合い、力強く盛り上がります。再現部は第2主題から戻り、晩年の特徴である「第2の展開部」を経て、二つの主題が融合するコーダへと至ります。コーダにはピレネー地方の鐘の音を思わせる響きが聴かれる（ネクトゥー）と言われています。

第2楽章：アンダンティーノ、ヘ長調、4/4拍子

三部形式。歌謡的な緩徐楽章です。ピアノの穏やかな伴奏に乗って、ヴァイオリンとチェロが親密に語り合うような美しい第1主題を示します。この楽章の美しさは多くの批評家から絶賛されており、「並外れて美しい第1主題」（クライトン）、「至上の美しさ」「この世のものとは思えない弦の語らい」（ネクトゥー）、「高雅な抒情味があふれる魅惑的な音楽」（平島）といった賛辞が寄せられています。中間部の第2主題はコラール様式で、物憂げな雰囲気を漂わせます。主題が重なり合うコーダは、ヘ長調の安らかさの中で閉じられます。

第3楽章：アレグロ・ヴィヴォ、ニ短調、3/8拍子

活気に満ちたスケルツォ風の終楽章で、ロンド・ソナタ形式とも解釈されます。長い導入部では、ヴァイオリンとチェロのオクターヴ・ユニゾンによる激しい「呼びかけ」の音型が印象的です。この音型がレオンカヴァッロのオペラ『道化師』のアリアと類似していることはしばしば指摘されますが、フォーレの長男は偶然であるとし、フォーレ自身はこの指摘を好まなかったと伝えています。しかし、イタリアのヴェリズモ・オペラを嫌っていたフォーレの性格から、皮肉が込められている可能性も論じられています。主部では、チェロが提示する第1主題、ヴァイオリンとチェロの掛け合いによる第2主題が展開されます。終楽章としてはフォーレの室内楽作品でも特に優れていると評価されており、「ピアノ五重奏曲第1番よりも成功している」（クライトン）、「創意・手法ともにチェロソナタ第2番の終楽章をはるかに超える」（ネクトゥー）といった高い評価を得ています。コーダでは冒頭の「呼びかけ」の主題が再び大きく響き渡り、ニ長調で力強く全曲を締めくくります。

このピアノ三重奏曲は、フォーレが肉体的困難の中でなお、晩年の境地に至った透明感と深みを示す重要な作品と言えるでしょう。

もう一度検索