ラルス・ポルセンナの前のムキウス・スカエウォラ

この絵画は、フランドルのバロック期を代表する巨匠、ピーテル・パウル・ルーベンスとアンソニー・ヴァン・ダイクが1618年から1620年頃に共同で制作した油彩作品です。スペイン宮廷のために描かれ、後にウィーンの収集家を経て、現在はブダペスト国立西洋美術館に所蔵されています。この作品は、古代ローマの英雄ムキウス・スカエウォラの伝説的な逸話を題材としています。

主題

17世紀のフランドルは、カトリックの牙城であったスペイン・ハプスブルク家の支配下にあり、カトリック精神の理想を古代世界に求めていました。その結果、古代ローマの英雄伝を題材にした絵画が数多く制作されました。本作の主題は、ティトゥス・リウィウスの『ローマ建国史』に記された出来事に基づいています。

紀元前500年頃、ローマはエトルリア人の王を追放し共和制を宣言しました。これに激怒したエトルリア王ラルス・ポルセンナはローマを包囲します。ローマの貴族ガイウス・ムキウス・スカエウォラは、王の暗殺を企てますが失敗し捕えられます。しかし、拷問を受ける前に、彼は自ら右手を火にかざし、不屈の精神を示しました。その勇気に感銘を受けたポルセンナ王は、ムキウスをローマに送還し、和平を提案したと伝えられています。この出来事から、ムキウスは勇気と忠誠の象徴として後世に語り継がれています。

作品の特徴

画面中央に立つムキウスは、右手を燃え盛る火にかざしています。これは、拷問を恐れない不屈の精神を示すための自発的な行為でした。この勇敢な行動から、彼は後に「スカエウォラ（左手の人）」という異名を得ることになります。ルーベンスは、主人公ムキウスを際立たせるために、彼のマントを鮮やかな赤色で描き、隣の兵士には白い腰布を纏わせています。この「赤」と「白」のコントラストは、ルーベンスの他の作品でも見られる表現手法です。

ムキウスがローマ人であることを示すために、彼の靴には狼の飾りが施されています。これは、ローマを建国したロムルスとレムスの兄弟が狼に育てられたという伝説に由来し、狼がローマの象徴的な動物であることを示しています。

拷問用の火を灯す台には、絶大な力を象徴するスフィンクスと、エトルリア美術に頻繁に見られる牡羊が描かれています。これらのモチーフは、場面がエトルリア王の陣内であることを示唆しています。ムキウスの右手と、驚愕するポルセンナ王の左手は、この火を挟んで対角線上に配置されており、画面に躍動感と劇的な雰囲気を加えています。このような対角線を基本とした構図は、バロック美術の特徴であり、ルーベンスの他の作品にも多く見られます。

画面左下には、ムキウスに殺されたポルセンナ王の書記官が横たわっています。ムキウスは王の暗殺を企てていた際に、王の代わりに兵士に報奨を与えていた書記官を、王と間違えて殺害してしまったのです。

制作過程

本作の構図と下絵はルーベンスが担当し、色彩はヴァン・ダイクが担当したと考えられています。ルーベンスの力強い構図と、ヴァン・ダイクの繊細な人物描写が融合した、両者の個性が際立つ傑作と言えるでしょう。2人の画家の共同制作期間はわずか2年ほどであったため、この作品は大変貴重なものとなっています。

準備習作と素描

1620年には、油彩による準備習作と素描が制作されており、現在、モスクワのプーシキン美術館とロンドンの大英博物館に所蔵されています。これらの習作からは、ルーベンスが全体の構図を決定し、ヴァン・ダイクが細部を仕上げていった制作過程が伺えます。

大英博物館に所蔵されている素描では、焼ける肉の臭いに鼻をつまむ人物が描かれていますが、ヴァン・ダイクが完成させた本作では、ムキウスの真後ろに1人だけが描かれています。この変更は、絵画の主題をより明確にするための意図的な調整であると考えられます。

結論

「ラルス・ポルセンナの前のムキウス・スカエウォラ」は、ルーベンスとヴァン・ダイクという二人の巨匠の才能が融合した、バロック美術の傑作です。古代ローマの英雄譚を題材に、不屈の精神と勇気を力強く描いたこの作品は、美術史において重要な位置を占めています。

参考文献

千足伸行監修『週刊世界の美術館 No.88 ブダペスト国立西洋美術館』、講談社、2001年

外部リンク

ブダペスト国立西洋美術館公式サイト、ピーテル・パウル・ルーベンス、ヴァン・ダイク『ラルス・ポルセンナの前のムキウス・スカエウォラ』（英語）

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