ロバのパン屋

ロバのパン屋とは、昭和初期から日本国内で広く見られた、移動式のパン販売形態を指します。この営業スタイルは、馬車をロバや馬に牽かせて都市や町の通りを巡りながら、パンを販売するものでした。しかし、日本が高度経済成長期に突入し社会インフラが整備されるにつれて、馬車による移動販売は次第に姿を消し、自動車による販売へと転換されていきました。

起源と初期の試み

日本で最初にロバを用いてパンを販売したとされるのは、1931年（昭和6年）に札幌市で石上寿夫氏が創業した「ロバパン石上商店」です。石上氏は偶然の機会に博覧会出展のために中国から連れて来られたロバ「ウィック」を譲り受け、このロバに馬車を牽かせてパンを販売することを考案しました。子供たちの目を引くユニークなアイデアと考えたのです。石上氏が考えたロバ移動販売車は、競馬の騎手のような扮装をした御者が蝶ネクタイを締め、リヤカーを改造した小型の馬車を駆るというものでした。石上商店では初代ウィックの引退後も新たなロバを導入しましたが、体力の弱いロバへの負担を考慮し、数年後にはロバによる移動販売を中止しました。なお、石上商店はその後株式会社化し、現在も北海道を代表する製パン会社「ロバパン」として事業を継続しています。

「ロバのパン」の普及とビタミンパン

後年、「パン売りのロバさん」という歌と共に多くの人々の記憶に深く刻まれた「ロバのパン屋」は、主に京都市に本社を置く株式会社ビタミンパン連鎖店本部によって展開されたものでした。社長の桑原貞吉氏は、浜松にあった代理店「亀屋パン」社長の移動販売アイデアに注目し、1953年（昭和28年）に浜松市と京都市でこの形式の販売を開始しました。これが、昭和30年代に日本各地で広く見られるようになった、四輪の馬車を牽く「ロバのパン」の原型です。

興味深いことに、このビタミンパン連鎖店の馬車を実際に牽いていたのは、ロバではなく大部分が馬、特に日本の在来種である木曽馬でした。木曽馬は比較的小型の馬（ポニー）であったため、「ロバ」のイメージに近く、また子供たちへの訴求力も高かったことから、社長の桑原氏は意図的に馬で牽引しながら「ロバのパン」として宣伝しました。販売する商品は主に蒸しパンでした。

ビタミンパン連鎖店は、馬車に蓄音機を搭載して「パン売りのロバさん」のメロディーを流しながら販売するという革新的な宣伝手法と、全国にチェーンを展開するという時代に先駆けた経営戦略によって、昭和30年代には150店舗以上を擁するまでに急成長を遂げました。この成功を受け、多くの同業他社も誕生し、ロバのパン屋は最盛期を迎えました。移動販売車も改良が進み、馬ではなく三輪自転車を動力とするタイプも登場しました。最盛期の1960年（昭和35年）には、関西テレビのドラマにも取り上げられるほどでした。

衰退と名称の継承

昭和30年代後半になると、日本の高度経済成長に伴う社会の変化が、ロバのパン屋の営業形態を困難にしていきます。自動車の普及により道路事情が激変し、速度の遅い馬車は交通渋滞の原因として敬遠されるようになりました。また、臆病な性質を持つ馬にとって、自動車のクラクションは暴走の危険を高める要因となりました。さらに、馬の排出する糞尿が問題視されるようになり、舗装道路やマンホールも馬の蹄鉄には負担となりました。

このような状況を受け、ビタミンパン本部では1961年（昭和36年）にはすでにライトバンによる営業を開始していました。一部の地域ではその後も馬車による販売が続けられましたが、多くの連鎖店では昭和40年代にかけて自動車販売への切り替えが急速に進みました。ただし、昭和50年代半ばまで岐阜県でイベント的に馬を用いた移動販売が行われた例もあり、テレビ番組で紹介されたこともあります。一方、ビタミンパン連鎖店が主力としていた蒸しパンは、食料品が多様化する中で消費者の嗜好から外れていきました。

結果として、馬車による販売形態はほぼ姿を消しましたが、「ロバのパン」という名称と、「パン売りのロバさん」のメロディーは、多くの人々の記憶の中に残り、現在も一部でこの名称が使われています。

「パン売りのロバさん」の歌

「パン売りのロバさん」は、1955年（昭和30年）にキングレコードから発売された童謡です。作詞は矢野亮氏、作曲は豊田稔氏、歌は近藤圭子氏です。一般的には「ロバのパン屋」のイメージソング、CMソングとして認識されています。しかし、作詞の矢野氏がこの詞を着想したきっかけは、1954年（昭和29年）に東京の浅草・雷門付近で見かけた移動販売のパン屋だったと記録されています。この時期、ビタミンパン連鎖店は東京で営業していませんでした。また、歌詞に登場するパン屋は菓子パンを複数扱っていますが、ビタミンパン連鎖店の商品は蒸しパンでした。このことから、矢野氏が見たのはビタミンパン連鎖店とは異なる同業他社（馬を使用していたと推測される）であったと考えられています。それでも、矢野氏とキングレコードのディレクター長田暁二氏は「ロバ」をイメージしてフレーズを生み出しました。

ビタミンパン連鎖店の社長、桑原貞吉氏がこの歌を初めて耳にしたのは、発売された年の暮れでした。彼はすぐにこの歌を自社の宣伝に活用することを決め、SP盤や特注LPを大量に製作・配布し、翌年には全国の連鎖店でこの曲を流しながら移動販売が行われるようになりました。

なお、これ以前にも「ロバのパン屋さん」という名称の曲が存在します。キングレコードは1939年（昭和14年）に明石喜好作詞、山口保治作曲の同名曲を発売しており、これは札幌の石上商店をモチーフにした可能性が考えられています。また、ビクターレコードも1951年（昭和26年）に坂口淳作詞、平岡照章作曲の「ろばのパン屋さん」（表記はひらがな）を発売しており、古賀さと子氏が歌った童謡レコードに収録されています。

その他の逸話

競走馬の中には、このロバのパン屋にちなんで「ロバノパンヤ」と名付けられた馬も存在しました。1995年生まれのサラブレッドで、珍名馬を多く所有することで知られる馬主の小田切有一氏の持ち馬でした。

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