ロンドンの大疫病

ロンドンの大疫病（1665-1666）

ロンドンの大疫病は、1665年から1666年にかけてイングランドの首都ロンドンを襲った、歴史上特筆すべき腺ペストの大流行です。これは、14世紀の黒死病から始まった第二次ペストパンデミックの終盤に発生し、イングランドにおける同流行の中で最も規模の大きな出来事となりました。

推定によると、このわずか18ヶ月の間に、当時のロンドン人口の約4分の1にあたる10万人もの人々が命を落としたとされています。病原体はペスト菌であり、主にネズミに寄生するノミを介して人間に感染することが、後の研究で明らかになっています（ペスト菌が同定されたのは1894年、DNA分析で1665年の流行も腺ペストであったことが証明されたのは2016年です）。

流行前のロンドン

17世紀のロンドンは、他の西ヨーロッパの都市と同様、ペストがしばしば流行する地域でした。過去にも1603年に3万人、1625年に3万5千人、1636年に1万人など、大規模な被害が発生しています。

当時のロンドンは、城壁に囲まれた市域と、その外に広がる急速な都市化エリアから構成されていました。特に貧しい住民が暮らす地域では、長屋が密集し、衛生環境は極めて劣悪でした。下水道設備はなく、汚水は街路の中央に設けられた開渠を流れていました。道路は泥や排泄物で汚れ、夏には悪臭とハエが蔓延し、冬には排水溝が溢れました。市は「掃除人」を雇って汚物を市外へ運び出していましたが、その積み上げられた汚物は腐敗し、常に悪臭が漂っていました。通りを歩く人々は鼻を覆って歩くのが常でした。

物資の輸送は陸路が中心で、荷車や歩行者で混雑し、城門は都市の成長のボトルネックとなっていました。テムズ川にかかるロンドン橋も同様に混雑していました。富裕層は辻馬車や椅子かごを利用していましたが、徒歩の貧困層は泥や汚水で汚れる危険に常にさらされていました。加えて、石炭を使う多くの家庭や工場からの煤煙により、空気も汚染されていました。

城壁の外側にも、職人や商人の居住区が広がり、木造の掘っ立て小屋が並ぶ衛生状態の悪いスラム街が形成されていました。政府はこうした拡大を規制しようとしましたが成功せず、多くの人々が過密な環境で生活していました。

ロンドンの行政機構は複雑で、城壁内の「シティ」とその外側の自由区域を合わせた「シティ・アンド・リバティーズ」、さらにウェストミンスターやロンドン塔のような独自の自由区域、そしてミドルセックス州やサリー州の管轄区域が混在していました。

感染の拡大と当局の対応

1664年末、空に明るい彗星が現れたことは、ロンドンの人々に不吉な予感を与えました。この頃から、ペストの兆候が見られ始めたと言われています。この時代の病気診断は不確かで、天然痘など他の病気も流行しており、初期のペスト症例特定は困難でした。

イングランドへのペスト伝播は、1663年から1664年にかけて大流行に見舞われたオランダのアムステルダムから、木綿を運んできた商船によってもたらされたと考えられています。最初の感染地域は、港に近いセント・ジャイルズ教区のような貧困層が多い地域でした。1664年末から1665年初頭にかけて疑わしい死亡例が報告されましたが、当初は公的な対策は取られませんでした。

しかし、1665年春になると、ロンドン全体の死亡数が増加し始め、4月には公式にペスト死が報告されました。当局は、感染者が出た家屋を40日間閉鎖する隔離措置を導入しました。これにより初期には暴動も発生しましたが、厳しく鎮圧されました。また、患者を隔離・治療するためのペストハウス建設も命じられました。これらの対応は、当局が早い段階から大流行の危険性を認識していたことを示唆しています。

気候が温暖化するにつれて疫病は急速に広がり、5月には複数の教区で感染者が確認されました。富裕層は国王や宮廷とともにロンドンから脱出を開始しました。多くの店が閉鎖され、商人や職人も市外へ避難しました。ジャーナリストのダニエル・デフォーは、避難する人々の様子を活写しています。一方、より貧しい人々は、市外での生活の見通しが立たず、また健康証明書の入手が困難になったため、留まることを余儀なくされました。脱出できた人々も、受け入れを拒まれ、路上生活を送るなど悲惨な状況に陥りました。

流行のピーク

7月に入ると、ペストはロンドン市内で本格的に流行し始めました。死亡者数は週ごとに激増し、7月末には週2000人を超え、9月には週7000人以上に達したと推定されています。これは公式記録であり、実際にはさらに多くの犠牲者が出たと考えられています。特に、死亡者数の報告義務がなかったり、意図的に死因が隠蔽されたりしたため、正確な数は不明です。当時の死亡表は、識字能力が低く、死因特定能力のない高齢女性の「調査員」が作成しており、信頼性が低い面がありました。

膨大な数の犠牲者に対応するため、埋葬地は不足し、大きな集団墓地の穴が掘られました。遺体輸送車が夜間に遺体を回収していましたが、犠牲者があまりに多くなると、日中の収集も再開され、遺体は積み上げられました。オールゲート教区では、深さ20フィートの巨大な穴が掘られ、最終的に1000体以上の遺体が収容された記録があります。

感染拡大を防ぐため、いくつかの対策が試みられました。当局はすべての犬や猫を殺すよう命じましたが、これはネズミを媒介とするノミの数を制御していた動物を減らすことになり、かえって疫病を長引かせた可能性が指摘されています。また、「悪い空気」が病気を広げると考えられたため、街路や家屋で昼夜を問わず焚火が焚かれました。タバコも予防策として信じられていました。

交易や商業活動はほぼ停止し、街路からは人の姿が消え、遺体輸送車や苦しむ病人だけが見られるような状況でした。海軍官僚サミュエル・ピープスの日記は、当時のロンドンの恐ろしい光景を伝えています。食料供給は滞りましたが、市当局が事前に穀物を買い付けていたこと、そして周辺の村々が特定の場所で物々交換や「解毒」した硬貨での取引に応じたことにより、餓死者は防がれました。

終息と影響

1665年の晩秋になると、死亡者数は減少し始め、1666年初頭にはロンドンは比較的安全と見なされるようになり、国王をはじめとする避難していた人々が帰還しました。経済活動も再開され、ロンドンは以前にも増して活気を取り戻しました。

疫病は1666年半ばまで散発的に発生していましたが、同年9月に発生したロンドン大火により、ロンドン市街の大部分が焼失しました。火災によって疫病が終息したと信じる人もいましたが、現代では大火以前に流行はほぼ収束に向かっていたと考えられています。大火によって、市内の不衛生な木造建築が集中的に破壊されたことは、その後の衛生環境改善に繋がった可能性はあります。

公式には1665年のペスト死は68,596人ですが、過小評価されていると考えられており、実際の犠牲者は10万人、あるいはそれ以上であったと推定されています。イングランド全体では、総人口の約2.5%が犠牲になったと見られています。

この大疫病は、イングランドにおける最後のペスト大流行となりました。その後、ペストの発生は減少し、1703年には死亡表からペストの分類が削除されました。

大疫病はロンドンに甚大な被害をもたらしましたが、その後の都市再建はロンドンをより健康的な都市へと変える契機となりました。1666年のロンドン再建法に基づき、街路は拡張され、舗装され、開渠は廃止されました。木造建築や張り出し窓は禁止され、煉瓦や石造りが義務付けられるなど、建築規制が導入されました。ロンドンは単に回復するだけでなく、より整然とした、より安全な都市へと生まれ変わったのです。

この未曽有の災害は、ロンドンの住民間に共同体意識を育んだとも言われています。また、再建事業を監督したロバート・フックや、セント・ポール大聖堂などを設計したクリストファー・レンといった建築家、そして国王チャールズ2世の支援を受けた王立協会に集まる科学者たちの活動は、イングランドにおける芸術と科学の復興を促進しました。

近年、ロンドンの地下工事現場で発掘された集団墓地から、ペスト菌のDNAが検出されており、考古学的にも大疫病の犠牲者たちの痕跡が確認されています。

ロンドンの大疫病は、都市衛生の重要性や感染症対策の困難さを示す歴史的事実として、今なお多くの教訓を与えています。

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