主題と変奏 (フォーレ)

主題と変奏嬰ハ短調作品73

ガブリエル・フォーレ（1845年-1924年）によって作曲されたピアノ曲『主題と変奏嬰ハ短調作品73』は、近代フランス音楽を代表するこの作曲家の重要なピアノ作品の一つとして位置づけられています。彼の創作活動における円熟期にあたる1895年に書かれ、同時期に生まれた夜想曲第6番（作品63）や舟歌第5番（作品66）と並び称される傑作です。この作品は、フォーレにとって唯一の本格的な変奏曲であり、主題とそれに続く11の変奏からなる全12部の構成を持っています。大規模なロマン派変奏曲の伝統を受け継ぎつつ、フォーレならではの独自の語法で書かれているのが特徴です。

作曲の背景と経緯

本作はフォーレが50歳を迎えた1895年に生み出されました。正確な作曲年には複数の説が存在しますが、広く受け入れられているのは1895年説です。この根拠として、1894年に作曲された夜想曲第6番を献呈された友人で文学者・哲学者のウジェーヌ・デクタルに宛てた1895年9月付の手紙の中で、フォーレ自身が「ピアノ変奏曲」に言及していることが挙げられます。この手紙の内容から、『主題と変奏』は夜想曲第6番や舟歌第5番（いずれも1894年）、そして同時期の舟歌第6番（1895年）と関連して作曲されたと考えられています。

また、1894年から1895年にかけての期間に、フォーレが5曲の宗教合唱曲を作曲したことも、この作品の構成や内容に影響を与えた可能性が指摘されています。一方で、出版年である1897年を作曲年とする文献も多く存在し、フランスの哲学者ウラジミール・ジャンケレヴィッチやピアニストのアルフレッド・コルトーも異なる年を挙げるなど、作曲年の特定には議論がありました。

初演と出版

『主題と変奏』の初演は、作曲から間もない1896年12月10日、ロンドンのセント・ジェームズホールで開催された「フォーレ・フェスティバル」で行われました。独奏を務めたのはピアニストのレオン・ドゥラフォスです。この演奏会にはフォーレ自身も参加しており、自身のピアノ四重奏曲第2番でピアノを担当したほか、ドゥラフォスが2台ピアノ用に編曲した自身のヴァルス・カプリス第2番と第4番ではドゥラフォスと共演しています。初演者のドゥラフォスは、フォーレの舟歌第5番の初演も手がけています。

作品は、フォーレの友人であり弟子でもあったテレーズ・ロジェに献呈されました。フォーレはロンドンでの初演の様子をロジェへの手紙で伝えており、「聴衆は、初演作品に対してもそれほど退屈している様子ではなかった」と記しています。楽譜は初演の翌年、1897年にロンドンのメツラー社とパリのアメル社から出版されましたが、残念ながらフォーレ自身の自筆譜は今日まで発見されていません。

楽曲解説

全体の特徴

本作は、主題とそれに続く11の変奏、合計12の部分から構成されています。主題から第10変奏までは主調である嬰ハ短調で展開されますが、最後の第11変奏（終曲）において、同主長調である嬰ハ長調へと転じます。フォーレは各変奏間に意図的な対比を生むよう全体の流れを設計しており、楽想の緊張と弛緩が繰り返されます。

この作品は、バッハ、ベートーヴェン、シューマン、ブラームスといった作曲家たちの系譜に連なる大規模な変奏曲として捉えられています。特にロベルト・シューマンの『交響的練習曲』と比較されることが多く、付点音符の多用、低音部のオクターヴ、伴奏における弱拍での打音といった要素において類似性が指摘されています。しかし、フォーレ自身がシューマンを意識して作曲したという明確な資料は見つかっていません。フォーレ研究家のネクトゥーやオーリッジは一部の変奏にシューマンを思わせる箇所があるとし、ジャンケレヴィッチやクライトンは、類似は全体的な印象や最後の変奏の性質にあるが、シューマンの作品とは異なる性格を持つと論じています。

ジャンケレヴィッチはまた、この作品全体を覆う「浄化、沈思、平静」といった独特の雰囲気が、嬰ハ短調における特定の和声進行、特に「ナポリ6の和音」の使用によって生み出されていると分析しています。

『主題と変奏』は、その芸術的価値と技術的な要求から、1910年以降、パリ音楽院の卒業試験の課題曲として採用されました。著名なピアニスト、クララ・ハスキルもこの曲を演奏して一等賞を獲得しています。

各変奏の概要

作品は主題と、それぞれに個性的な性格を持つ11の変奏で成り立っています。

主題：クアジ・アダージョ、4/4拍子。フォーレ独特のゆっくりとしたテンポで、哀歌のような雰囲気を持ちます。弱拍が強調された行進曲風のリズムに乗って提示され、A-B-A'-B-A'という特徴的な形式を持っています。各変奏における主題の再現形式は変化に富んでいます。
第1変奏：ロ・ステッソ・テンポ（同じ速さ）。左手に主題が現れ、右手は16分音符による繊細な旋律を奏でます。中音域にもパルスがあり、3声部を明確に弾き分ける技術が求められます。
第2変奏：ピウ・モッソ（より速く）。練習曲のような性格を持ち、左右の手が奇数拍で上行、偶数拍で反行する外声が印象的です。
第3変奏：ウン・ポコ・ピウ・モッソ（少し速く）。ここから第5変奏までは3/4拍子となります。主旋律は単音で始まり、やがてオクターヴに重ねられます。主題のリズム的なアクセントの位置がずらされており、リズムの要素が前面に出ます。
第4変奏：ロ・ステッソ・テンポ。高度な技巧が必要とされる変奏です。主旋律は左右の手の間をめまぐるしく行き来し、動きのエネルギーが強く感じられます。主題はアルペジオの音型に姿を変え、低音部に現れます。
第5変奏：ウン・ポコ・ピウ・モッソ。前の変奏からフェルマータを挟んで開始されます。左右の手による反行形の動きは、どこか優雅なダンスを思わせます。主題は非常に簡潔な旋律線に集約されており、アクセントを持たない点が特徴です。研究家の中には、フォーレの連弾組曲『ドリー』のスタイルとの類似を指摘する声もあります。
第6変奏：モルト・アダージョ（非常に遅く）。テンポがぐっと落ち、ゆったりとした瞑想的な雰囲気に包まれます。音価や強弱の異なる3つの声部が絡み合い、一種のパヴァーヌを思わせます。主題は左手に現れ、右手はきわめて高い音域から下降してくる伴奏を奏でます。この変奏について、ネクトゥーはシューマンとの関連に触れつつ「非常に美しい一連のページが始まる」と述べ、ジャンケレヴィッチは宇宙的な広がりを感じさせる描写をしています。
第7変奏：アレグレット・モデラート（やや速めのモデラート）。装飾された主題がレガート・エスプレッシーヴォ（滑らかに表情豊かに）奏され、両手間で模倣し合います。左手は右手の旋律のエコーのように響きます。
第8変奏：アンダンテ・モルト・モデラート（非常にゆっくりとしたモデラート）。上声に主旋律が歌われ、内声では左右の手による3度の並進行が特徴的です。この変奏には、フォーレのピアノ四重奏曲第2番の第3楽章アダージョとの関連性が指摘されています。
第9変奏：クアジ・アダージョ。半音階的な動きが豊富に用いられ、夜想曲のような性格を持ちます。途中に2/4拍子が一小節だけ挿入されるなど、凝った書法が見られます。ジャンケレヴィッチはこの変奏を「忘我の境地に誘う」と、ネクトゥーは「一切の解説を必要としないもっとも深遠な世界」と表現しています。
第10変奏：アレグロ・ヴィーヴォ（速く活発に）。再びテンポが上がり、3/8拍子による絶え間ない動き（無窮動）が特徴です。奏者には高度な技巧が求められます。前半のピアニッシモから後半のフォルティッシモにかけて、非常に長いクレッシェンドが見られ、作品全体におけるクライマックスとして位置づけられることがあります。ネクトゥーは特に終曲への橋渡しとなる最後の部分を傑出していると評しています。
第11変奏（終曲）：嬰ハ短調から待望の嬰ハ長調へと転じます。対位法的な書法が駆使され、主旋律と対旋律が美しく絡み合います。主題はバス声部に組み込まれていますが、4つの声部からなるポリフォニーの中に埋もれており、その原形を耳で追うことは容易ではありません。また、第9変奏と同様に、途中で4/4拍子が1小節だけ挿入されます。ジャンケレヴィッチは「熱を帯びた、ある種の『ドゥムカ』風の瞑想」と形容し、ネクトゥーは「全曲の中で最も高度な内容を持つと同時に最も近づきにくい曲」としつつも、その純粋な響きにフォーレ後期の様式に現れる平穏さと高貴さを読み取っています。

編曲

指揮者デジレー＝エミール・アンゲルブレシュト（1880年-1965年）は、『主題と変奏』をバレエのために管弦楽編曲しました。この編曲版は、フォーレの没後である1927年にパリ・オペラ座で『月の光』と題され、カリナ・アリの振り付けで上演されました。しかし、研究家のネクトゥーはこの試みを「説得力に欠ける」と評しており、現在ではあまり知られていません。

まとめ

『主題と変奏作品73』は、フォーレが築き上げた独自の音楽語法と変奏曲という形式が見事に融合した傑作です。嬰ハ短調の哀愁を帯びた主題から始まり、多様な性格を持つ変奏を経て、最終的に嬰ハ長調の光に満ちた世界へと到達する構成は、聴き手に深い感動を与えます。技術的な要求も高く、ピアニストにとっては重要なレパートリーの一つとなっています。ロマン派の伝統を踏まえつつ、フォーレ独自の洗練された美学が凝縮されたこの作品は、彼のピアノ音楽の中でも特別な輝きを放っています。

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