井上徳三郎

井上 徳三郎

井上 徳三郎（いのうえ とくさぶろう）は、1868年（明治元年）あるいは1867年（慶応3年）に尾張国名古屋城下の八百屋町（現在の愛知県名古屋市中区）に生まれた実業家です。その生涯は1868年6月1日から1936年（昭和11年）12月1日までです。現在の豊田市にある豊田市民芸館の敷地内には、かつて彼の迎賓館として使用されていた旧井上家住宅西洋館が移築保存されています。

若き日々

商家に生まれた徳三郎は、青年期に幅広い教養を身につけました。書道は尾張藩の儒学者であった増田春棋に、歌道は植松有園の高弟である三輪経年に師事しています。茶道への造詣は特に深く、村瀬元中から学んだ後、京都の裏千家家元である千宗室の門を叩きました。晩年には、茶人としても知られる石川丈山の茶席を自身の農場敷地内に保存するほどでした。

明治中期、1890年（明治23年）に関戸銀行に入社し、為替係主事として勤務しましたが、1896年（明治29年）に退社。同年12月からは両替商として独立し、日露戦争後の好景気を捉えて大きな財を築き上げました。この成功により、元名古屋市長の青山朗と共に朝鮮半島での農場開発計画を検討するまでになりました。

井上農場の挑戦

両替商で得た潤沢な資金を元に、徳三郎は新たな挑戦として農場経営を目指します。1911年（明治44年）、現在の豊田市井上町にあたる西加茂郡猿投村の広大な山林、約130ヘクタールを購入しました。しかし、郡長からは「商人の素人が手を出すべきではない」と厳しい意見を受けます。それでも徳三郎は諦めず、元愛知県立農林学校長の山崎延吉に相談し、金山揚水にも携わった内藤乾蔵を紹介されます。内藤による現地調査を経て、土地の潜在力を確信した徳三郎は、1912年（大正元年）に井上農場を設立し、農家6戸30人とともに開墾に着手しました。

全国で米騒動が発生した1918年（大正7年）頃には、農場には27戸130人の農家が暮らしており、徳三郎は彼らの食糧を提供しました。この時期には、農場はほぼ自給自足体制を確立していました。農場は順調に発展し、1925年（大正14年）には農家数が32戸となり、日本各地から農業関係者や学校職員など、多くの視察者が訪れるようになります。東京帝国大学の著名な農学博士たちや、農林大臣、内務大臣なども視察に訪れ、井上農場は近代的な農業経営の模範例として注目されました。最終的に農家数は62戸306人にまで増加し、希望者には3年間地代無料で土地を貸し出すなど、独自の支援も行いました。大根、果樹、桑葉などが主な農作物で、見学者は6000人を超えたと言われています。1927年（昭和2年）には、昭和天皇の勅使である海江田幸吉侍従も農場を視察しています。

地域社会への貢献

「徳は事業の基なり」という信条を掲げ、徳三郎は地域社会の発展にも多大な功績を残しました。

交通インフラの整備

1911年（明治44年）、現在の名鉄三河線にあたる三河鉄道の敷設免許申請に、才賀藤吉や三浦逸平らと共に名を連ねました。三河鉄道は順次路線を延伸し、1920年（大正9年）には知立駅と挙母駅（現豊田市駅）間が開業します。大正末期、さらなる延伸を目指すも経営難に陥った三河鉄道を支援するため、徳三郎は多額の株式を引き受け、1924年（大正13年）には井上農場への交通手段確保も兼ねて、猿投駅の建設用地として広大な土地を寄付しました。同年10月31日には猿投駅が開業し、盛大な記念式典が開催されました。1932年（昭和7年）には、猿投駅の改築費用も提供するなど、鉄道網の発展に大きく貢献しました。

教育への支援

1906年（明治39年）に開校した西加茂郡立農学校（現在の愛知県立猿投農林高校）が、1923年（大正12年）の郡制廃止に伴い、愛知県への移管が検討されました。しかし、規模が小さいことを理由に県は難色を示します。この時、徳三郎が井上農場の敷地約7000坪を愛知県に提供したことで、学校は校地を猿投村に移転し、愛知県に移管されて愛知県猿投農学校と改称することができました。徳三郎は土地の提供だけでなく、校長と教頭のための住宅2戸も建設するなど、教育環境の整備にも尽力しました。

その他の貢献

1914年（大正3年）から1924年（大正13年）にかけては、名古屋市の中京法律学校の校主兼理事として経営に参画しました。また、20年以上にわたり生誕地である名古屋市八百屋町の町総代を務め、地域自治にも貢献しました。その功績は1935年（昭和10年）に中区長から表彰されています。

晩年と顕彰

地域社会への貢献が認められ、1923年（大正12年）に紺綬褒章を受章しました。1926年（大正15年）には、猿投村によって彼の功績を称える石碑「井上真冽翁頌徳碑」が建立されました。「真冽」は徳三郎の号です。1936年（昭和11年）には、猿投村議会が彼の功績を讃え、井上農場があった猿投村四郷字東山は、猿投村四郷字井上へと改称されました。同年12月1日、生誕地の名古屋市中区八百屋町でその生涯を閉じました。

井上 五郎

徳三郎の養嗣子となった井上五郎は、元陸軍大将の内山小二郎の四男として1904年（明治37年）に生まれました。東京帝国大学を卒業後、養嗣子として2代目井上農場主を継ぎました。五郎の実父である内山小二郎は、1945年（昭和20年）に疎開先の猿投村四郷で亡くなっています。戦後、猿投村は1953年（昭和28年）に町制を施行して猿投町となり、1967年（昭和42年）には豊田市に編入され、猿投町四郷字井上は豊田市井上町となりました。

井上五郎もまた、養父の精神を受け継ぎ、地域への貢献を続けます。1974年（昭和49年）には井上農場開墾五十周年を記念して500万円を、1980年（昭和55年）には自身の喜寿を記念して100万円を井上自治区に寄付しました。また、1980年（昭和55年）に私有地9500平方メートル、1984年（昭和59年）には公民館用地として3200平方メートルを豊田市や井上自治区へ寄付しました。これらの多大な貢献を称え、1984年（昭和59年）11月、井上公民館にかつて雉立池があった場所に「井上五郎翁之像」が建立されました。

旧井上家住宅西洋館

豊田市平戸橋町にある豊田市民芸館の敷地には、明治時代に名古屋市で開催された博覧会の迎賓館として建設されたとされる擬洋風建築、旧井上家住宅西洋館が移築保存されています。正確な竣工年は不明ですが、明治10年代と推定されており、明治時代に建てられた建物としては豊田市内に現存する唯一の洋風建築とされています。

この建物は、1928年（昭和3年）に井上農場の事務所敷地内に移築され、当初は迎賓館として使用されました。1935年（昭和10年）頃には隣接地に住宅が増築され、井上家の住居としても1988年（昭和63年）まで使用されました。その後、1989年（平成元年）に現在の豊田市民芸館敷地内に再び移築され、2000年（平成12年）12月には国の登録有形文化財に登録されています。この建物は、井上徳三郎と井上農場の歴史を物語る貴重な文化遺産となっています。

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