全生庵

普門山 全生庵

東京都台東区谷中に佇む全生庵は、臨済宗国泰寺派に属する由緒ある寺院です。普門山を山号とし、本尊にはかつて江戸城本丸に秘仏として祀られていたと伝えられる葵正観世音菩薩を安置しています。幕末から明治にかけて活躍した剣客であり政治家であった山岡鉄舟が開基として知られ、彼が明治維新に殉じた人々の菩提を弔うために創建された寺院です。また、近代落語中興の祖とされる初代三遊亭圓朝の墓所としても有名であり、落語にゆかりの深い寺としても多くの人々に親しまれています。

歴史

全生庵の創建は明治時代前期に遡ります。1880年（明治13年）、山岡鉄舟は激動の明治維新を乗り越えたものの、その陰で命を落とした多くの人々、特に彰義隊士などの旧幕府側の犠牲者の魂を安らかに弔うことを深く願い、寺院の建立を発願しました。鉄舟は越中・国泰寺より禅僧である越叟義格（松尾義格）禅師を招き、開山として迎え入れます。そして、その発願から三年後の1883年（明治16年）に、現在の地に全生庵が開創されました。明治という新しい時代を切り開く中で忘れられがちな犠牲者への深い慈悲の心から生まれた寺院と言えます。また、近代日本の政治を担った中曽根康弘氏や安倍晋三氏といった歴代総理経験者が、この静かな空間で座禅を組むために訪れていたことでも知られています。

本尊と寺宝

本堂に祀られている本尊、木造観音菩薩坐像は、江戸城の守護仏と伝えられる葵正観世音菩薩です。この仏像は長らく江戸城の最も奥まった場所に秘仏として安置されていたと言われ、明治維新後に全生庵に遷されました。その歴史的価値から、台東区の指定有形文化財に登録されています。

全生庵が広く知られるもう一つの理由は、落語家・初代三遊亭圓朝にゆかりのある貴重な寺宝です。特に注目されるのが、圓朝が蒐集した幽霊画コレクションです。怪談噺を得意とし、「牡丹灯籠」や「真景累ヶ淵」などの名作を生み出した圓朝は、創作の助けとするためにさまざまな幽霊画や妖怪画を集めたと言われています。そのコレクションは現在も全生庵に大切に保管されており、毎年夏に開催される「圓朝まつり」の期間中、一般公開されることで、多くの落語ファンや美術愛好家が訪れる機会となっています。圓朝の怪談世界を視覚的に体験できる貴重な機会です。

また、寺院には、多くの著名な画家たちが観世音菩薩像などを描いて寄進した仏画も多数収蔵されており、寺宝の一部として全生庵の文化的な豊かさを示しています。

著名人の墓所

全生庵の境内墓地には、開基である山岡鉄舟のほか、日本の歴史や文化に名を残した多くの著名人が眠っています。

中でも、落語家・初代三遊亭圓朝の墓は最もよく知られています。山岡鉄舟は、晩年になって禅の修行に深く帰依し、多くの人々を指導しました。勝海舟、高橋泥舟と共に「幕末の三舟」と称された鉄舟のもとには、政界や経済界だけでなく、文化人や芸術家も多く集まりました。初代圓朝もまた、鉄舟から禅の指導を受けており、鉄舟は圓朝の禅の師という深い師弟関係にありました。この縁によって、圓朝の墓所は師である鉄舟の開いた全生庵に定められました。

その他、全生庵に墓所がある主な著名人は以下の通りです。

山岡鉄舟：幕末の幕臣、明治政府の役人、剣客、禅者。全生庵の開基。
石坂周造（宗順）：山岡鉄舟の盟友。石油実業家として日本石油（現 ENEOS）の基礎を築いた。
松岡万：山岡鉄舟の盟友。幕府が組織した浪士組（後の新選組）の取締役を務めた。
村上俊五郎：山岡鉄舟の盟友。浪士組の小頭だった。
初代 三遊亭圓朝：日本の近代落語を確立したとされる落語家。鉄舟は圓朝の禅の師であった。
初代～四代目 三遊亭圓生：圓朝から続く名跡を継承した落語家たち。
三遊亭ぽん太：落語家。
弘田龍太郎：作曲家。「金太郎」「雀の学校」「汽車ポッポ」など、数多くの童謡や歌を世に送り出した。
松本楓湖：尊皇家であり画家。歴史画や仏画を得意とした。
棚橋絢子：明治時代の教育者。女子教育の発展に尽力し、華族女学校（現 学習院女子部）の設立に関わった。

年間行事

全生庵では、落語家・初代三遊亭圓朝の遺徳を偲ぶための行事が毎年夏に執り行われます。

圓朝まつり：例年8月上旬に開催されます。この期間に、普段は非公開の圓朝蒐集の幽霊画が特別公開されます。
圓朝寄席：例年8月中旬に行われ、全生庵の境内などを会場として落語会が開催されます。

これらの行事は、圓朝の命日である8月11日を中心に行われ、全生庵、落語協会、円楽一門会などが協力して、故人を偲び、落語文化を継承する機会となっています。

交通アクセスと周辺環境

全生庵は、東京都心にありながら比較的静かな環境に位置しています。東京メトロ千代田線の千駄木駅からは徒歩約5分と、公共交通機関でのアクセスが便利です。寺院の周辺は、昔ながらの趣を残す谷中の町並みが広がっており、散策にも適しています。近隣には、広大な敷地を持つ谷中霊園があり、江戸幕府最後の将軍である徳川慶喜公の墓所があることでも知られています。

関連する人物・事柄

落語家の五代目三遊亭圓楽師匠は、若手時代に「三遊亭全生」という前座名を名乗っていた時期があり、全生庵との不思議な縁を感じさせます。

全生庵は、山岡鉄舟が発願した慰霊という創建の目的と、初代三遊亭圓朝という文化人の墓所があるという二つの大きな特徴を併せ持っています。歴史、仏教、そして日本の伝統文化である落語に興味を持つ人々にとって、訪れる価値のある寺院と言えるでしょう。

もう一度検索