八坂刀売神

八坂刀売神：諏訪大社の女神と数々の伝承

八坂刀売神（やさかとめのかみ）は、神道で崇められる女神です。八坂刀売命、八坂斗女命などの表記も見られ、「八坂」は「弥栄（いやさか）」に通じるとの説から、「ますます栄える女性」を意味すると考えられています。諏訪大社の建御名方神（諏訪大明神）の妃神として、諏訪大社下社をはじめ各地の諏訪神社に祀られています。

神話と伝承の謎

『古事記』や『日本書紀』には登場せず、その起源については諸説が飛び交います。安曇氏出身説、綿津見命の娘という説、天八坂彦命の娘という説などがありますが、確実なことは分かっていません。江戸時代の説話では、妹として八坂入姫命の存在も記されていますが、これは誤記や誤解の可能性が高いとされています。

中世の垂迹説話では、天竺出身の波斯匿王の娘という説も存在し、その姿は千手観音と同一視されるなど、多様な解釈が見られます。『諏方大明神画詞』には、南天の国母や北極の帝妃といった表現も用いられ、神秘的な側面が強調されています。

上社との約諾

上社の大祝・諏訪信重が鎌倉幕府に提出したとされる『諏訪信重解状』（宝治3年、1249年）には、上社の諏訪大明神と下社の「姫大明神」が夫婦の契約を結んだという伝承が記されています。これは、中世の二神約諾神話の変形と考えられています。

治水・温泉伝説

川合神社の伝承では、建御名方神と八坂刀売神が治水を行い、越の海（日本海）へ水を流し出して平地を得たとされています。また、八坂刀売神が諏訪下社に移る際に持ち運んだ化粧用の湯玉（湯を含ませた綿）から、上諏訪温泉と下諏訪温泉が湧き出したという伝説もあります。下諏訪温泉は「綿の湯」とも呼ばれ、湯口の清濁は七不思議の一つとされています。

御神渡り

諏訪湖の御神渡りは、建御名方神が八坂刀売神を訪れる際にできたという伝説も存在します。

金剛女の宮

『神道集』「諏方大明神五月会事」によると、八坂刀売神は天竺の波斯匿王の娘、金剛女（こんごうにょ）の宮と同一視される説があります。金剛女は過去世の罪により鬼と化しますが、釈尊の加護により美しい姿を取り戻し、日本に移住して諏訪の神となったとされています。

高知尾の豊姫

『諏方大明神画詞』では、神功皇后の三韓征伐の際に諏訪・住吉の神々が現れ、皇后は「高知尾の豊姫」を龍宮へ使いとして送り、満干の両珠を借り受けたと記されています。豊姫は八坂刀売神と同一視される説があります。

歴史と神階

『続日本後紀』によると、承和9年（842年）に八坂刀売神は従五位下に叙せられ、その後急速に昇位していきました。これは、金刺氏（科野国造の一族）の力によると考えられています。

下社の起源と祭神

諏訪下社の起源は、6世紀末から7世紀初頭に伊那郡から諏訪地方へ進出した金刺氏による創建と考えられています。下社秋宮は祖先祭祀の場、春宮は水霊を祀る祭場だったと考えられています。宮坂光昭は、「ヤサカトメ」という神名が、元々水稲農耕における豊作呪術を行う巫女の名称であったという説を唱えています。

平安時代初期には既に下社に女神が祀られていたことが、平城天皇より下賜された「売神祝印」から分かります。中世以降は祭神について混乱が見られましたが、現在は八坂刀売神と建御名方神が主祭神、事代主神が配祀されています。

八坂刀売神と前宮

八坂刀売神は、上社前宮の祭神ともされていますが、これは「前八坂刀売神」の「前」の読み間違いによる誤りです。前宮の本来の祭神は「二十の御社宮神」です。

参考文献

上田正昭 他『御柱祭と諏訪大社』筑摩書房
太田亮『諏訪神社誌 第1巻』
諏訪市史編纂委員会 編『諏訪市史 上巻 (原始・古代・中世)』
福田晃 編『諏訪信仰の中世―神話・伝承・歴史』三弥井書店
宮坂光昭『諏訪大社の御柱と年中行事』郷土出版社
宮地直一『諏訪史 第2巻 前編・後編』信濃教育会諏訪部会
* 谷川健一 編『日本の神々―神社と聖地〈9〉美濃・飛騨・信濃』白水社

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