在日朝鮮人の帰還事業

在日朝鮮人帰還事業：理想と現実の狭間で

在日朝鮮人帰還事業は、1950年代から1984年にかけて行われた、在日朝鮮人とその家族による北朝鮮への集団移住を指します。この事業は、朝鮮半島の分断、冷戦、そして在日朝鮮人の複雑な立場が絡み合い、多くの人々の人生を大きく左右しました。

事業の概要

この事業は、主として1959年から1967年にかけて行われ、約9万3000人の在日朝鮮人が北朝鮮へ渡りました。その中には、約1800人の「日本人妻」も含まれていました。北朝鮮では「帰国事業」と呼ばれ、在日本朝鮮人総聯合会（朝鮮総連）が推進したため「帰国運動」や「帰還運動」とも呼ばれます。一方、韓国系の在日本大韓民国居留民団からは「北送事業」と批判的に呼ばれていました。

事業の経過

背景

第二次世界大戦後、朝鮮半島は南北に分断され、在日朝鮮人は複雑な立場に置かれていました。日本に留まるか、韓国へ帰国するか、あるいは北朝鮮へ移住するかという選択を迫られる中、朝鮮戦争の勃発や、韓国の政治的な混乱も、人々の決断に大きな影響を与えました。また、在日朝鮮人の中には、日本での生活困窮や差別を背景に、北朝鮮に希望を見出す人もいました。

1940年代～1950年代

1946年：北朝鮮臨時人民委員会が帰国に関する決定を公布。
1948年：大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国がそれぞれ建国。
1950年：朝鮮戦争勃発。
1955年：朝鮮総連が結成され、帰国運動が開始。
1959年：日本政府が帰還に関する閣議了解を行い、本格的な帰還事業がスタート。

1960年代～1980年代

1960年代：帰国事業がピークを迎え、多数の在日朝鮮人が北朝鮮へ。
1966年：日本政府がカルカッタ協定の延長を打ち切り、帰国事業は終息へ。
1984年：帰還事業が終了。

関係各国の思惑

北朝鮮

北朝鮮は、帰還事業を社会主義体制の優位性を示すプロパガンダとして利用しました。また、国内の労働力不足を補うとともに、在日朝鮮人を政治的な影響下に置くことを目論んでいました。さらに、日本との国交正常化の糸口としたいという思惑もありました。

日本

日本政府は、在日朝鮮人の生活保護費の負担や、犯罪率、左翼運動との連携への懸念から、帰国を推進しました。在日朝鮮人問題の解決策として、また、当時の社会情勢の中で、人道的見地から事業を支援しました。

韓国

韓国は、北朝鮮への帰還事業を「北送」と呼び、自国の管轄権を侵害するものとして強く反発しました。しかし、帰還者の受け入れには消極的で、資金的な負担を日本に求めました。

朝鮮総連

朝鮮総連は、当初は人道的な立場から帰還事業を推進しましたが、次第に北朝鮮の体制を支持する立場を強めていきました。また、帰還者からの寄付金で組織を運営し、北朝鮮への忠誠を誓わせるための活動を活発に行いました。

帰還者の実態

「地上の楽園」という幻想

朝鮮総連や一部の日本の進歩的文化人は、北朝鮮を「地上の楽園」と宣伝し、多くの在日朝鮮人がこれに魅了されて帰国を決意しました。しかし、実際に北朝鮮での生活は、宣伝とは大きく異なっていました。帰還者は、出身成分によって差別され、自由のない生活を強いられました。

帰還後の生活

北朝鮮に渡った帰還者は、出身成分によって差別され、厳しい監視下に置かれました。生活物資は不足し、住宅事情も悪く、多くの帰還者が「楽園」とは程遠い現実を目の当たりにしました。また、北朝鮮の社会主義体制に馴染めず、日本への帰還を望む人もいましたが、それも叶いませんでした。

帰還者への差別

北朝鮮社会は、在日朝鮮人を「帰胞」と呼び、差別的に扱いました。彼らは、資本主義社会で生活してきた異質な存在とみなされ、スパイの嫌疑をかけられることもありました。帰還者の多くが、自由を奪われ、過酷な労働を強いられ、収容所に入れられる者もいました。

帰還事業の終焉

北朝鮮の実態が明らかになるにつれて、帰還を希望する人は減少し、1984年に帰還事業は終了しました。しかし、帰還者の多くは、今もなお北朝鮮で厳しい生活を送っており、その人権問題は未解決のまま残されています。

帰還事業を題材とした作品

この帰還事業は、映画、小説、ノンフィクションなど、多くの作品で取り上げられています。以下に代表的な作品を挙げます。

批判的な立場

『北朝鮮という悪魔』（青山健煕）
『凍土の共和国』（金元祚）
『海峡のアリア』（田月仙）
『楽園の夢破れて』（関貴星）

肯定的な立場

映画『キューポラのある街』
映画『未成年続・キューポラのある街』
映画『東海の歌』

帰還事業の評価

帰還事業は、人道的な側面がある一方で、冷戦構造や政治的な思惑が絡み合った複雑な出来事でした。帰還者たちは、理想を抱いて北朝鮮に渡ったものの、その多くが差別や貧困、自由のない生活を強いられました。この事業は、人間の尊厳、人権、そして国家の役割について、深く考えさせられる教訓を私たちに与えてくれます。

関連人物

小泉純也
鳩山一郎
寺尾五郎
関貴星
金日成

結論

在日朝鮮人帰還事業は、単なる集団移住ではなく、多くの人々の人生を翻弄し、悲劇を生んだ歴史的な出来事でした。私たちは、この歴史から学び、二度とこのような悲劇を繰り返さないために、人権尊重の重要性を常に意識する必要があります。

参考文献

井上益太郎『在日朝鮮人帰国問題の真相』日本赤十字社、1956年。
関貴星著、宮崎学（監修）編『北朝鮮1960―総連幹部・最初の告発』河出書房新社、2003年3月（原著1962・63）。
高崎宗司・朴正鎮（編著）『帰国運動とは何だったのか』平凡社、2005年。
テッサ・モーリス・スズキ『北朝鮮へのエクソダス「帰国事業」の影をたどる』朝日新聞社、2007年。
* 菊池嘉晃『北朝鮮帰国事業の研究冷戦下の「移民的帰還」と日朝・日韓関係』明石書店、2020年。

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