天皇機関説事件

天皇機関説事件とは

1935年（昭和10年）に発生した天皇機関説事件は、当時の日本における憲法解釈をめぐる大きな政治的・思想的対立が表面化した事件です。天皇機関説とは、大日本帝国憲法における天皇の地位を、国家の最高機関として位置づける学説です。この学説によれば、天皇は国家の意思決定を行う最高の機関であり、統治権は法人である国家に属すると解釈されます。そして、天皇は国務大臣の輔弼を受けて統治権を行使するとされていました。

この学説は、当時の軍部の一部や右翼勢力から「天皇を機関とみなすのは不敬である」という批判を受けました。特に、軍部内の皇道派は、天皇機関説が内閣の権限を強化し、天皇大権を制限するものと捉え、これに強く反発しました。彼らは、天皇の権威を絶対的なものとして捉え、天皇親政を主張していました。事件は、こうした皇道派による天皇機関説への攻撃と、野党である立憲政友会が内閣倒閣を狙った政争が複雑に絡み合って展開されました。

事件の経緯

事件の発端は、1935年2月18日の貴族院本会議での菊池武夫議員の演説でした。菊池議員は、美濃部達吉議員が提唱する天皇機関説を「国体に背く学説である」と激しく非難しました。菊池議員は、美濃部議員を「学匪」「謀叛人」とまで罵倒し、機関説排撃を訴えました。当時の文部大臣や岡田啓介総理は、学説の問題は学者に委ねるべきという立場を取りましたが、菊池議員らの攻撃は収まりませんでした。

2月25日には、美濃部議員が自ら天皇機関説について釈明演説を行い、その内容を平易に説明しました。この釈明に対し、一部の議員からは拍手が起こり、菊池議員自身も「これならば問題ない」と発言する場面もありましたが、騒動はすぐに再燃しました。議会の外では、皇道派による抗議が激化し、中には「天皇陛下を機関車・機関銃に例えるとは何事か」と、天皇機関説を全く理解していない者まで現れる始末でした。

皇道派と立憲政友会の思惑

この騒動の裏には、皇道派による政権掌握の思惑がありました。彼らは天皇機関説を違憲と認めさせ、当時の岡田内閣や枢密院議長などの要職にある人々を失脚させようとしました。また、野党の立憲政友会も、この騒動を利用して政権を握ろうと企んでいました。彼らは、天皇機関説を支持する内閣を倒閣することを目的とし、皇道派と結託して機関説への攻撃を激化させました。

美濃部議員の釈明演説が新聞に掲載されると、攻撃はさらに増幅しました。これに乗じて、野党立憲政友会は、機関説の提唱者で当時枢密院議長の要職にあった一木喜徳郎や、金森徳次郎内閣法制局長官らを失脚させ、岡田内閣を倒すことを目論みました。

政府は、陸軍からの要求を受け、美濃部を警察で取り調べさせ、彼の著書を発禁処分とするなど、機関説を弾圧する姿勢を示しました。文部省は「国体明徴訓令」を発令し、政府は「国体明徴に関する政府声明」を二度にわたり発表しました。これらの声明で政府は、統治権の主体が天皇に存することを明示し、天皇機関説の教授を禁じました。

美濃部自身も不敬罪で告発され取り調べを受けましたが、起訴猶予処分となりました。しかし、同年9月18日には貴族院議員を辞職することになりました。翌年には、右翼暴漢に銃撃され重傷を負っています。

1937年、文部省は『国体の本義』を制定し、全国の教育機関に配布しました。この書物の中で、天皇機関説は西洋思想の無批判な導入であり、機関説問題は西洋思想の影響を受けた一部知識人の弊風に原因があると断定しました。

戦後の天皇機関説

第二次世界大戦後、ポツダム宣言に基づき憲法改正の動きが加速する中で、美濃部は明治憲法を支持し、天皇機関説の解釈に戻せば議会制民主主義が復活できると主張し、新しい憲法に断固反対しました。しかし、政府や主要政党が提示した憲法草案は、すべて天皇機関説に基づいて構成されたものでした。最終的には、国民主権を原理とする日本国憲法が成立し、天皇機関説は解釈学説としての役割を終えることとなりました。

まとめ

天皇機関説事件は、単なる学説論争にとどまらず、当時の日本の政治、思想、社会のあり方を大きく左右する出来事でした。この事件を通じて、天皇の地位や権限に関する議論が白熱化し、その後の日本の進むべき方向を定める上で重要な転換点となりました。

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