寅助火事

寅助火事（とらすけかじ）

寅助火事とは、江戸時代末期の文久2年（1862年）2月7日に、肥後国人吉藩（現在の熊本県人吉市）で発生した大火を指します。

火災の発生と拡大

火災は同日正午頃、人吉城下の鍛冶屋町にあった鉄砲鍛冶、恒松寅助の家から発生しました。折しも空気は乾燥し、さらに西北から強い風が吹き荒れる悪条件下にあったため、火勢は瞬く間に拡大。炎はたちまちのうちに川北へ延焼し、さらに球磨川を越えて対岸の人吉城内へと飛び火するという驚異的な広がりを見せました。

被害と影響

この火災は、650年以上にわたる相良氏による人吉統治の歴史上、かつてないほどの大規模な災禍となりました。幸いにも死者は皆無という奇跡的な結果に終わり、負傷者もわずか3名程度で済みましたが、城内および城下の多くの建造物が焼失するなど、物的被害は極めて甚大でした。これにより、人吉藩の財政は大きな打撃を受け、城下町の復興や焼失した武器の再整備という喫緊の課題が山積しました。さらに、この火災がもたらした混乱や対応の遅れは、慶応元年（1865年）9月25日に勃発する丑歳騒動という藩内抗争の原因の一つとなったともいわれています。

具体的な焼失箇所としては、城内、城下ともに広範囲に及びましたが、城内には一部被災を免れた区域も存在しました。

復興と資金調達

大火からの復興は藩にとって喫緊の課題であり、那須四方介と菊池七郎左衛門が営中普請奉行に任命され、再建が指揮されました。藩主・相良頼基は、火災の一因とも考えられた小板葺きの屋根について、新築家屋から順次、分限に応じて瓦葺きに変更するよう達しを出し、城下にもこれに準じるよう奨励しました。

復興には多額の資金が必要となり、その額はおよそ一万五千両と見積もられました。人吉藩はまず、隣接する熊本藩細川家に対し、勘定奉行・犬童権左衛門を使者として借入を申し入れました。しかし、熊本藩は相州警備や武器整備などに費用がかさんでおり、借入に応じるのは困難であるとして断られました。資金調達が難航する中、江戸への出府途上にあった家老・渋谷三郎左衛門が、大坂の豪商・近江屋半右衛門に一万両の借入を申し入れたところ、これは承諾されました。残る五千両については、犬童権左衛門が渋谷練助を伴い薩摩藩島津家を訪れ、重役の小松清廉や桂久武と面談した結果、その即断により借入が叶いました。

この薩摩藩からの借入に伴い、薩摩藩への米の返済輸送路を確保するため、元治元年（1864年）1月からは大畑と吉田の間に新道が建設されました。この道は後に「薩摩街道」と呼ばれるようになります（現在はほとんど使用されていません）。また、これを機に人吉藩と薩摩藩の関係はより親密となり、島津家からは琉球大平布や畳表などの見舞品に加え、復興支援として多数の大工、左官、木挽き、瓦屋、桶屋といった職人が派遣されました。池田家からも見舞いがありました。

火元者への処置とその後

火元となった恒松寅助に対する処置は、通常の失火に対する厳罰とは異なり、異例の寛大さでした。彼は失火料を課されたのみで済んでいます。一説には、寅助は失火後に薩摩国へ逃れたものの、彼が鉄砲鍛冶であったこと、そして幕末の動乱期という特殊な時代背景から、その技能が重宝され、寛大な処置をもって帰藩が許されたと『人吉市史』は記しています。

この大火を受け、藩主・相良頼基は江戸幕府へ参勤延期願を提出し、受理されました。また、前述の通り、焼失した武器の再整備方針を巡る藩士間の意見対立が、後の丑歳騒動へと発展する重要な要因の一つとなりました。

寅助火事は、人吉藩に未曽有の物的被害と財政危機をもたらしただけでなく、藩の対外関係や内部抗争にまで影響を及ぼした、幕末期の人吉藩にとって極めて重要な出来事でした。

参考文献

* 人吉市史編さん協議会『人吉市史 第一巻』1981年

もう一度検索