山下徳治

山下徳治（後に森徳治と改姓、別名：村上純）は、明治後期から昭和中期にかけて活動した日本の教育学者です。1892年1月15日に生まれ、1965年7月10日にその生涯を終えました。特に、戦前の新自由教育運動において、ヨーロッパやソビエト連邦からの教育理論、とりわけ労働教育の概念を日本に紹介し、その普及に努めたことで知られています。また、ロシアの心理学者レフ・ヴィゴツキーに生前直接会った、唯一の日本人としても特筆されます。

山下は1892年、現在の鹿児島県徳之島に生まれました。西南戦争終結後、一家は徳之島へ移住し、父親は砂糖の製造販売を手がけました。山下が3歳の頃、一家は鹿児島市へ転居。鹿児島第一中学校（旧制）に進学後、教職を志し、同校2年生で鹿児島師範学校に編入、1913年に卒業しました。その後は母校である鹿児島市西田小学校の教壇に立ちました。

転機が訪れたのは1916年の夏。京都帝国大学生であった小原國芳が鹿児島市で哲学講演会を開いた際、そのワークショップにおける山下の発言に着目した小原は、1920年に山下を成城小学校へ招請しました。成城学園校長の澤柳政太郎の助言を得て、1923年4月からはドイツのマールブルク大学に学び、哲学者のナトルプに師事し、ペスタロッチの教育論を深く研究しました。このドイツ滞在中に、雑誌に掲載されたデューイの教育論がペスタロッチのそれを凌駕していることを知り、デューイの著作を取り寄せて研究。また、ハイデッガー、ヤスパース、ルドルフ・オットーらの講義にも耳を傾け、エーリッヒ・イェンシュの直観像理論に触れました。その後、ソビエト連邦へ赴き教育状況を視察し、1927年に帰国しました。

帰国後、成城学園初等学校の主事や高等学校でのドイツ語教授を務めましたが、澤柳の死去に伴い自由学園へ移籍しました。1929年には、後藤新平やモスクワ駐在の外交官らの支援を受けて、再びヨーロッパへ渡りました。ダルクローズのリトミックやボーデの芸術体操を視察した後、再びソビエト連邦へ向かいました。ここでは生理学者のパブロフの実験室を訪問したほか、当時の文部人民委員ルナチャルスキーをはじめ、ヴィゴツキー、ルイゼ、シャツキー、バーソフといった教育関係者らと意見を交わしました。この訪問には、後藤新平と共に労働大学を設立するという構想がありましたが、後藤の死により実現しませんでした。特筆すべきは、この滞在中にヴィゴツキーと出会い、イェンシュの直観像理論の検証実験に共に立ち会う機会を得たことです。この実験では、少しドイツ語を話せる心理学者のルリヤがヴィゴツキーに付き添い、被験者とのロシア語でのやり取りで山下を助けました。実験は成功し、ヴィゴツキーは山下のために晩餐会を開いたと伝えられています。ヴィゴツキーが直観像の研究を学生に勧め、その追実験に熱心だった背景には、「思考の最も発達した形式は概念である」という当時の一般的な見方に対して、より原始的な思考形式や直観的思考形式を探求しようとする彼の研究姿勢がありました。彼はイェンシュの研究が直観的領域における「意味づけられた構図」といった特定の一般化の存在を明らかにした点を重視しており、その研究は『思考と言語』における思考発達段階論とも深く関連していました。

二度目のソビエト訪問を踏まえ、山下は1929年12月に著書『新興ロシアの教育』を上梓しました。これにより、マルクス主義に基づくソビエトの教育内容に詳しい第一人者として広く認識されるようになりました。1929年秋には、プロレタリア科学研究所の教育部門を牽引する一人となり、教育研究や教科研究を中心とした啓蒙運動の核となる研究所設立を構想しました。小倉金之助、長田新、三木清、羽仁五郎らに相談し、激励や賛同を得ました。この頃、山下のもとには多くの学生や若い教師、教育学者が訪れ、中には日本教育労働者組合の結成準備を進める者もいました。しかし、急進的な動きに対し、山下は経済的生活の保障と同時に教育研究の本質を追求し、国民の支持を得る必要性を主張し、慎重な姿勢を示しました。それでも、若い情熱に押され、時代の流れの中に立つことを避けられなかったと後に述懐しています。

1930年春から夏にかけて、合法的な教育研究機関としての新興教育研究所の設立準備を進めました。同年9月1日には機関誌『新興教育』を創刊。9月下旬には研究所の創立総会が開催され、「プロレタリア教育の研究、建設」を目的として設立されました。山下は研究所の所長に就任し、機関誌にも積極的に論文を発表しました。また、1932年脱稿の『日本資本主義発達史講座』第4巻「教化史」では、「国際的プロレタリア科学の鎖の一環として新興教育の科学的建設を翹望してゐる」と研究所の意義を力説しました。1930年11月には、朝鮮の新興教育研究所支局準備会弾圧事件に関連して朝鮮半島へ連行され、逮捕されるといった経験もしています。さらに、プロレタリア科学研究所が主宰する外国語大学でドイツ語講師を務め、岩波書店の雑誌『教育』の編集にも携わりました。

1934年には雑誌『教材と児童学研究』を創刊し、波多野完治らと児童学における「発育」論争を展開しました。教育科学研究会が発足した際には、科学教育研究部会の委員を務めるなど、教育研究の最前線で活躍しました。また、育生舎の編集長や、株式会社池貝鐵工所の労働部長に就任し、城南中小企業徒弟教育要領の編集を手がけるなど、実践的な教育・社会活動にも関与しました。しかし、教育運動は弾圧の波にさらされ、新興教育研究所は1933年末から1934年春にかけて解体しました。さらに、1944年には教科研事件で検挙・拘留されるなど、困難な時期も経験しました。

1941年に結婚し、妻の姓である森に改姓しました。終戦間もない1945年には鹿児島へ移住し、農業に従事しました。1949年には再び東京へ戻り、戦後の教育・社会活動に関わりました。全国の健民少年団の理論指導にあたり、1962年に日本スポーツ少年団が創設された折には本部委員となり、その理念構築にも貢献しました。

山下徳治（森徳治）は、労働教育、ソビエト教育、デューイ研究、児童学、社会教育など、多岐にわたる分野で多くの著書、論文、翻訳を残しました。特にヴィゴツキーとの直接的な交流は、その後の日本におけるヴィゴツキー研究の端緒の一つとしても位置づけられる重要な出来事でした。波乱に富んだ時代の中で、教育研究と社会実践の両面にわたり、日本の教育界に確かな足跡を残した人物と言えるでしょう。

もう一度検索