常州牛堀

葛飾北斎『富嶽三十六景』「常州牛堀」：霞ヶ浦の眺望と人々の営み

葛飾北斎の代表作として名高い『富嶽三十六景』。その全46図の中に、「常州牛堀（じょうしゅううしぼり）」という作品があります。1831年から1834年頃、永寿堂西村屋与八より刊行された大判錦絵で、北斎の落款は「前北斎為一筆」です。

この作品は、現在の茨城県潮来市付近、霞ヶ浦の南東端から流れ出る常陸利根川の左岸にある牛堀を描いています。『富嶽三十六景』の中でも最も東に位置し、富士山からの距離は約175キロメートルと最も遠いため、富士山をこの地から見ることが出来るのかという疑問が湧きます。しかし、立体地図ソフトなどを用いた調査によれば、常陸国南部は西側に山地がないため、条件が揃えば富士山を望むことができたと考えられています。

江戸時代、徳川幕府による利根川改修の影響で、東廻海運がこの牛堀に寄港するようになり、一時的に賑わい、遊廓も存在するほど栄えたといいます。しかし、本図が描かれた頃には、廻船は利根川本流を直接通るようになり、牛堀は水戸藩の輸送、霞ヶ浦での漁業、そして鹿島・香取両神宮参詣の際の宿場としての役割が主となっていました。

赤松宗旦の『利根川図志』には、牛堀について「霞ヶ浦入口なり　霞ヶ浦ハ至て渡り難き海なれバ　此所に滞船して風をまつ故に　出入の船多く此河岸に集り　また鹿島に至るに　利根川より横利根に入り　北利根を経て　浪逆（なさか）の海にいたる」と記されており、北斎の絵にも、帆柱を畳んで風待ちをする船が描かれていることがわかります。

北斎が実際に牛堀を訪れたという記録はありませんが、河村岷雪の絵本『百富士』巻四に、牛堀からの富士山の眺望を描いた作品があり、北斎がそれを参考に描いた可能性が考えられています。『百富士』では、筑波山と富士山を望み、霞ヶ浦と常陸利根川が広く描かれた俯瞰図となっており、遠景には帆船が描かれるなど、『富嶽三十六景』の「上總ノ海路」とも共通する構図が見られます。

しかし、北斎は岷雪の写実的な描写とは異なり、高瀬舟を大きく前面に配置し、手前に岩を配することで、力強い構図を作り上げています。これは、北斎独自の「近接拡大法」と言えるでしょう。

絵の左方には高瀬舟から水を流す男が描かれていますが、彼が持っているのは羽釜であり、右手で流出箇所を押さえていることから、米を研いでいる様子だと推測できます。この行為は、北斎の狂歌絵本『みやこどり』の「三叉の月」にも見られる描写です。また、雪の葦原を2羽の鷺が飛ぶ様子は、『富嶽三十六景』の「駿州大野新田」の5羽の鷺と同様の姿勢で描かれています。

「常州牛堀」の初摺はベロ藍単色摺でしたが、本図は後摺で、船や遠景の庵に木色が用いられている点が特徴的です。富士山頂右下にも庵が描かれてはいますが、こちらはベロ藍のままです。

このように、「常州牛堀」は、霞ヶ浦の風景と人々の営みを、北斎独自の表現技法で力強く描き出した作品であり、『富嶽三十六景』の中でも重要な一図と言えるでしょう。北斎の絵画技法や、当時の社会情勢、地理的背景を知る上で貴重な資料となっています。

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