弦楽六重奏曲第2番 (ブラームス)
ヨハネス・ブラームスが1865年に完成させた弦楽六重奏曲第2番ト長調作品36は、ヴァイオリン2本、ヴィオラ2本、チェロ2本という同編成による第1番作品18と並んで、彼の室内楽作品の中でも特に親しまれている一曲です。豊かな響きと情感の深さが特徴であり、ブラームスの円熟期への歩みを示す作品と言えます。
この作品が本格的に作曲されたのは1864年からですが、その構想は1855年には遡ります。ブラームスは友人クララ・シューマンへの手紙で、この曲の断片をしばしば紹介していました。1860年に第1番を完成・出版した後、ブラームスは1862年にウィーンへ移り住み、批評家エドゥアルト・ハンスリックら多くの芸術家と交流を深めます。翌年にはウィーン・ジングアカデミーの指揮者に就任（1864年辞任）するなど、ウィーンでの活動を本格化させていました。第2番は、このようなウィーン定住後の充実した時期に生み出されました。1864年のうちに第3楽章までが書き上げられ、全曲の完成は遅くとも翌1865年7月でした。友人ヘルマン・レヴィへの手紙では、すでに四手ピアノ編曲も終えていることが記されています。出版は1866年4月、ジムロック社より総譜、パート譜、四手ピアノ譜が刊行されました。初演は同年10月、意外にもアメリカのボストンで行われました。ヨーロッパ初演は11月にチューリヒ、ウィーン初演は1867年でした。
この第2番を巡る最も有名なエピソードの一つに、ブラームスのかつての恋人、アガーテ・フォン・ジーボルト（江戸時代に来日したシーボルトの親戚）との関係が挙げられます。ブラームスは1858年にゲッティンゲンでアガーテと出会い、恋愛関係となりました。アガーテは素晴らしい歌声を持ち、ブラームスは彼女のために歌曲を作曲したほどです。しかし、この関係は1859年にアガーテからの婚約破棄によって終わりを迎えます。
第2番のスケッチが1855年頃から存在していたにも関わらず、本格的な作曲が失恋から数年後の1864年から始まったこと、そしてブラームスがこの曲で「最後の恋から解放された」と語ったとされることから、彼の友人であり最初の伝記作家であるマックス・カルベックは、この曲にアガーテへの思いを断ち切る決意が込められていると解釈しました。その根拠とされるのが、第1楽章の第2主題終結部に現れるヴァイオリンの音型です。これはイ-ト-イ-ロ-ホという音ですが、ドイツ音名でA-G-A-H-Eと読むことができ、アガーテ（Agahte）の名前に対応すると考えられたのです。
しかし、この「アガーテ音型」説にはいくつかの疑問点が指摘されています。まず、ブラームス自身がこの音型について何も言及していないため、この音型が意図的にアガーテを示しているという確証はありません。また、失恋から本格的な作曲開始までに数年の隔たりがあることも不自然さを感じさせます。さらに、カルベックのブラームス作品に対する解釈は、時に詩的すぎるという批判も存在します。これらの点から、この有名な逸話については、あくまで伝聞として慎重に受け止めるべきでしょう。
弦楽六重奏曲第2番は、ヴァイオリン2本、ヴィオラ2本、チェロ2本という編成のために書かれています。これはブラームスが先に作曲した弦楽六重奏曲第1番と全く同じ構成であり、豊かな低音と厚みのある中間声部を持つ、独特の響きを生み出しています。
全4楽章構成で、各楽章にブラームス円熟期の個性が光ります。
1. 第1楽章：Allegro non troppo
ト長調、ソナタ形式。ヴィオラの揺らめくような音型に導かれ、ヴァイオリンが息の長い、時にト短調を思わせるような陰影を帯びた第1主題を奏でます。徐々に楽器が加わり高揚した後、チェロから現れる伸びやかな第2主題はヴァイオリンへと受け継がれます。この第2主題の終結部に、先述の「アガーテ音型」とされる特徴的な音型が登場します。展開部では、冒頭のさざ波のような音型や第1主題が中心的に扱われ、穏やかに再現部へと移ります。
2. 第2楽章：Scherzo, Allegro non troppo - Trio, Presto giocoso
主部はト短調、複合三部形式。ハンガリー風の軽快ながらも愁いを帯びた2拍子のスケルツォです。中音域以下の楽器によるピチカートのリズムに乗って、ヴァイオリンが印象的な主題を歌います。中間部のトリオはト長調の3拍子となり、憂いから解放されたような明るく活発な旋律が特徴的です。主部が再び奏された後、活気に満ちたコーダで楽章を閉じます。
3. 第3楽章：Poco adagio
ホ短調、変奏曲形式。主題と五つの変奏から構成される、ブラームスらしい変奏曲の技巧が光る楽章です。ヴァイオリンが奏でる主題は、伴奏の2連符と3連符が同時進行する複雑なテクスチャーに支えられています。批評家ハンスリックは、この楽章を「主題のない変奏曲」と評したと伝えられています。最後は同主調であるホ長調へと転じ、静かに結ばれます。
4. 第4楽章：Poco allegro
ト長調、ソナタ形式。9/8拍子のリズミカルな動きと16分音符の細やかなパッセージで幕を開けます。一旦高揚した後、ヴァイオリンが静かに第1主題を提示します。この主題が展開されフォルテになったところで、ヴァイオリンのオブリガートに伴われてチェロが伸びやかな第2主題を高音で歌い上げます。展開部は比較的コンパクトで、第1主題の断片を用いながら転調を重ねます。再現部はやや簡略化されていますが、長いコーダで第1主題を基にした高揚感を築き、華やかに全曲を締めくくります。
豊かな響きと情緒的な旋律、そして緻密な構成が見事に融合したこの作品は、ブラームスの室内楽を語る上で欠かせない重要なレパートリーの一つです。
作曲の背景と経緯
この作品が本格的に作曲されたのは1864年からですが、その構想は1855年には遡ります。ブラームスは友人クララ・シューマンへの手紙で、この曲の断片をしばしば紹介していました。1860年に第1番を完成・出版した後、ブラームスは1862年にウィーンへ移り住み、批評家エドゥアルト・ハンスリックら多くの芸術家と交流を深めます。翌年にはウィーン・ジングアカデミーの指揮者に就任（1864年辞任）するなど、ウィーンでの活動を本格化させていました。第2番は、このようなウィーン定住後の充実した時期に生み出されました。1864年のうちに第3楽章までが書き上げられ、全曲の完成は遅くとも翌1865年7月でした。友人ヘルマン・レヴィへの手紙では、すでに四手ピアノ編曲も終えていることが記されています。出版は1866年4月、ジムロック社より総譜、パート譜、四手ピアノ譜が刊行されました。初演は同年10月、意外にもアメリカのボストンで行われました。ヨーロッパ初演は11月にチューリヒ、ウィーン初演は1867年でした。
いわゆる「アガーテ音型」を巡るエピソード
この第2番を巡る最も有名なエピソードの一つに、ブラームスのかつての恋人、アガーテ・フォン・ジーボルト（江戸時代に来日したシーボルトの親戚）との関係が挙げられます。ブラームスは1858年にゲッティンゲンでアガーテと出会い、恋愛関係となりました。アガーテは素晴らしい歌声を持ち、ブラームスは彼女のために歌曲を作曲したほどです。しかし、この関係は1859年にアガーテからの婚約破棄によって終わりを迎えます。
第2番のスケッチが1855年頃から存在していたにも関わらず、本格的な作曲が失恋から数年後の1864年から始まったこと、そしてブラームスがこの曲で「最後の恋から解放された」と語ったとされることから、彼の友人であり最初の伝記作家であるマックス・カルベックは、この曲にアガーテへの思いを断ち切る決意が込められていると解釈しました。その根拠とされるのが、第1楽章の第2主題終結部に現れるヴァイオリンの音型です。これはイ-ト-イ-ロ-ホという音ですが、ドイツ音名でA-G-A-H-Eと読むことができ、アガーテ（Agahte）の名前に対応すると考えられたのです。
しかし、この「アガーテ音型」説にはいくつかの疑問点が指摘されています。まず、ブラームス自身がこの音型について何も言及していないため、この音型が意図的にアガーテを示しているという確証はありません。また、失恋から本格的な作曲開始までに数年の隔たりがあることも不自然さを感じさせます。さらに、カルベックのブラームス作品に対する解釈は、時に詩的すぎるという批判も存在します。これらの点から、この有名な逸話については、あくまで伝聞として慎重に受け止めるべきでしょう。
編成
弦楽六重奏曲第2番は、ヴァイオリン2本、ヴィオラ2本、チェロ2本という編成のために書かれています。これはブラームスが先に作曲した弦楽六重奏曲第1番と全く同じ構成であり、豊かな低音と厚みのある中間声部を持つ、独特の響きを生み出しています。
楽曲構成
全4楽章構成で、各楽章にブラームス円熟期の個性が光ります。
1. 第1楽章：Allegro non troppo
ト長調、ソナタ形式。ヴィオラの揺らめくような音型に導かれ、ヴァイオリンが息の長い、時にト短調を思わせるような陰影を帯びた第1主題を奏でます。徐々に楽器が加わり高揚した後、チェロから現れる伸びやかな第2主題はヴァイオリンへと受け継がれます。この第2主題の終結部に、先述の「アガーテ音型」とされる特徴的な音型が登場します。展開部では、冒頭のさざ波のような音型や第1主題が中心的に扱われ、穏やかに再現部へと移ります。
2. 第2楽章：Scherzo, Allegro non troppo - Trio, Presto giocoso
主部はト短調、複合三部形式。ハンガリー風の軽快ながらも愁いを帯びた2拍子のスケルツォです。中音域以下の楽器によるピチカートのリズムに乗って、ヴァイオリンが印象的な主題を歌います。中間部のトリオはト長調の3拍子となり、憂いから解放されたような明るく活発な旋律が特徴的です。主部が再び奏された後、活気に満ちたコーダで楽章を閉じます。
3. 第3楽章：Poco adagio
ホ短調、変奏曲形式。主題と五つの変奏から構成される、ブラームスらしい変奏曲の技巧が光る楽章です。ヴァイオリンが奏でる主題は、伴奏の2連符と3連符が同時進行する複雑なテクスチャーに支えられています。批評家ハンスリックは、この楽章を「主題のない変奏曲」と評したと伝えられています。最後は同主調であるホ長調へと転じ、静かに結ばれます。
4. 第4楽章：Poco allegro
ト長調、ソナタ形式。9/8拍子のリズミカルな動きと16分音符の細やかなパッセージで幕を開けます。一旦高揚した後、ヴァイオリンが静かに第1主題を提示します。この主題が展開されフォルテになったところで、ヴァイオリンのオブリガートに伴われてチェロが伸びやかな第2主題を高音で歌い上げます。展開部は比較的コンパクトで、第1主題の断片を用いながら転調を重ねます。再現部はやや簡略化されていますが、長いコーダで第1主題を基にした高揚感を築き、華やかに全曲を締めくくります。
豊かな響きと情緒的な旋律、そして緻密な構成が見事に融合したこの作品は、ブラームスの室内楽を語る上で欠かせない重要なレパートリーの一つです。
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