氷の魔物

氷の魔物（The Ice-Demon）

クラーク・アシュトン・スミスによる短編ホラー小説『氷の魔物』は、パルプ雑誌『ウィアード・テールズ』の1933年4月号に掲載されました。スミスが創造した太古のハイパーボリア大陸を舞台とする一連の作品群の一つであり、特にその末期、ついに訪れた大氷河期を描いています。単に怪物が出現するホラーとは異なり、この物語では「氷」という自然現象そのものが無機的ながらも意思や悪意を帯びたかのような脅威として立ちふさがります。

舞台：ハイパーボリアの終焉

物語の舞台は、伝説のハイパーボリア大陸がその歴史の終焉を迎えつつある時代です。かつて栄華を誇ったこの大陸は、北から押し寄せるポラリオンの大氷河によって徐々にその領土を侵食されていました。特に大陸北部に位置するムー・トゥラン半島は、冷たい氷の壁に覆われ始めています。スミスのハイパーボリア作品の年代記を編纂しようとする試みは、この氷河期の到来時期の解釈などを巡って複雑さを増していることが指摘されています。

物語のあらすじ

迫りくる大氷河に対し、ムー・トゥランのハーロル王は、魔術師オムム＝ウォグと自らの軍隊を率いて立ち向かいます。魔術師は強大な魔術をもって疑似太陽を出現させ、氷河を溶かそうと試みますが、突如発生した濃い霧が熱と炎を遮り、王たちは為す術なく氷塊の中に閉じ込められてしまいます。辛うじて生還したわずかな兵士たちは、巨大な氷河そのものが意思を持った魔物であり、命あるものを全て凍てつかせようとしているのだと証言しました。この出来事以来、氷河に飲み込まれた北の地は忌まわしい場所として、誰も近づこうとしなくなります。

それから50年の時が流れました。一人の狩人であるイルアクは、偶然にもかつての戦場跡に迷い込み、氷の中に完璧な姿で保存されたハーロル王たちの亡骸を発見します。生還したイルアクは、氷河が奪ったものを決して手放さない「氷の魔物」だと確信し、その地に深い恐怖を抱くようになりました。彼は弟のクアンガに発見場所を伝えた後、別の狩りの最中に不慮の事故で命を落とします。

兄の恐怖を迷信だと考えたクアンガは、むしろ氷の中に眠るハーロル王が身に着けていた王家の紅玉に目をつけます。彼は兄の怯えを憐れみ、自分は迷信に囚われないと豪語し、紅玉を手に入れることを決意します。彼は二人の宝石商、フーム・フィートスとエイブル・ツァンスを説得し、莫大な報酬を条件に危険な探索への同行を取り付けます。宝石商たちは王家の宝ゆえに売却が困難であることを承知しつつも、その価値に惹かれたのです。

極寒の中を進んだ三人は、やがてイルアクが語っていた場所へとたどり着き、氷漬けとなった王たちの姿を発見します。厚い氷壁の奥に紅玉の輝きを見出した彼らは、鶴嘴を使って氷を砕き、ついに目的の宝石を手に入れます。紅玉を掴み喜びを露わにしたその瞬間、天井から巨大な氷柱が落下し、一人の宝石商の頭を打ち砕きました。直撃を免れたクアンガともう一人の宝石商は、いつの間にか洞窟の空間が狭まり、入り口が遠のいているという異常事態に気づき、慌てて脱出を試みます。しかし、洞窟から外に出た直後、残った宝石商もまた落ちてきた氷柱に貫かれて絶命してしまいます。

たった一人となったクアンガは、紅玉を握りしめて逃走を開始します。ところが、足元の氷の地面が意思を持っているかのように波打ち、彼の逃げ道を塞いだり、進路を変えさせたりと、執拗に追跡してきます。自然現象とは思えない妨害に、クアンガは恐怖で思考力を失い、ただ遠くに見える火山が立つ温暖な土地を目指してひたすら走り続けます。やがて彼は植物が生い茂り、小川が流れる谷に辿り着き、安堵してわずかな休息を取ります。しかし、追いついてきた冷気に体温を奪われ、そのまま凍死しました。絶命する直前、クアンガは手にした紅玉を遠くへと投げ捨てます。転がり落ちた紅玉は、谷間の池に張った氷の上に散らばりました。物語は、大氷河がいずれこの谷にも到達し、奪われた紅玉を再び自らの内に取り戻すであろうことを示唆して幕を閉じます。

主な登場人物

クアンガ: イルアクの弟で物語の中心人物。兄の恐怖を迷信と笑い、ハーロル王の紅玉を狙う。勇敢だが無謀な面も。
イルアク: クアンガの兄。氷の奥に王たちを発見するが、氷河の恐怖に囚われる。後に事故死。
フーム・フィートスとエイブル・ツァンス: クアンガに同行するイックアの宝石商たち。財宝に目が眩む。
ハーロル王: 50年前に氷河に挑み、氷漬けとなった王。
* オムム＝ウォグ: ハーロル王に仕えた魔術師。疑似太陽の魔術を使うも、氷河に敗れる。

収録情報と影響

本作は、日本語では主に創元推理文庫のクラーク・アシュトン・スミス作品集に収録されています。大瀧啓裕訳の『ヒュペルボレオス極北神怪譚』や、井辻朱美訳の『イルーニュの巨人』などで読むことができます。

スミス以降、リン・カーターなど他の作家たちもハイパーボリアの氷河期を舞台にした作品を執筆しており、本作はその先駆けの一つと言えます。また、リン・カーターが創造した旧支配者アフーム＝ザーは、冷気を司る存在として後にハイパーボリア滅亡の直接的な原因と設定されるなど、クトゥルフ神話における関連付けもなされています。

『氷の魔物』は、単なる怪物の登場ではなく、圧倒的な自然現象が持つ根源的な恐怖と、それに抗えない人間の姿を描いた、スミスらしい異色のホラー作品です。

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