源氏物語の写本

源氏物語写本の世界：多様な伝本と本文系統

源氏物語は、日本を代表する古典文学作品であり、平安時代中期に紫式部によって著されました。その長い歴史の中で、無数の写本が作られ、現代に伝わっています。しかし、現存する写本は全体のほんの一部であり、その数は正確には把握されていません。主要な校本で校合対象とされている写本だけでも約100本にのぼり、それ以外にも多くの写本が存在したと考えられています。21世紀においても、新たな写本の発見が時折報じられるほどです。

写本の名称

源氏物語の写本は、その書写者や所有者、管理者の名前に由来する名称で呼ばれることが多く、一つの写本が複数の名称を持つことも珍しくありません。例えば、著名なコレクターである大島雅太郎が所蔵していた写本には、「大島本」と呼ばれるものが複数存在し、書写者名や巻名などを付して区別されています。このように、名称だけでは写本を特定できない場合も多く、注意が必要です。

本文系統

源氏物語の写本は、本文系統によって「青表紙本」、「河内本」、「別本」の三系統に大別されます。これは、古注釈の時代から存在した二系統に、池田亀鑑が「別本」を加えて体系化したものですが、この分類には様々な問題点が指摘されています。阿部秋生は、外形的な特徴に偏っていることや、本文比較を重視すべきであることなどを批判しています。

さらに、写本は単一の系統に属するとは限らず、「取り合わせ本」と呼ばれる、複数の写本を組み合わせたものも多く存在します。また、写本は一度書写された後も、校合によって本文の訂正が繰り返され、本文系統の混在や複雑化が生じています。代表的な写本である大島本や尾州家河内本にも、複数の系統の本文が混在していることが確認されています。

近年では、コンピュータを用いた本文比較によって、定量的なデータに基づいた分析が進められています。文節レベルの一致率や不一致率を計算することで、写本間の類似性や相違点を数値で示し、従来の定性的な分類に代わる新たなアプローチが模索されています。

加藤昌嘉は、宇治十帖の本文異同を分析し、「青表紙本」「河内本」「別本」といった従来の分類が、実際の本文の異同状況を説明する上で無力であることを指摘しています。

写本の現状

源氏物語は54帖からなる長編作品であるため、全帖揃った写本は非常に稀です。多くの写本は、一部の帖しか残っていない「零本」であり、完全な形で現代に伝えられているものは限られています。

また、「取り合わせ本」のように、複数の写本を組み合わせたり、欠損部分を補ったりした写本も多く存在します。中には、巻名と本文が一致しない、あるいは他の物語の本文が混入しているといった特殊な写本もあります。これらの状況から、源氏物語写本の研究は、本文の系統や異同だけでなく、写本の成立過程や伝来の歴史にも目を向けなければなりません。2019年には、藤原定家筆とされる「若紫」一帖の新発見が報告されるなど、今後も新たな発見が期待されます。

写本の作成

紫式部の時代には、自筆本や能書家による写本が作成されていたと考えられていますが、現存するものは一つもありません。その後、源麗子による「従一位麗子本」といった写本が作成され、摂関家の一条家に伝来したとされていますが、これも現存しません。

鎌倉時代以降は、「青表紙本」「河内本」といった、正しい本文を持つとされた証本が登場し、それらを基準とした写本作成が盛んに行われました。室町時代には、地方の権力者も源氏物語の写本を蒐集するようになり、京都の公家から古写本が譲渡されたり、注文に応じて写本が作成されたりしました。

江戸時代には版本が登場し、源氏物語の普及が大きく進みましたが、その後も様々な目的で写本が作成され続けました。既存の写本を補うための写本、趣味として書写された写本、研究のための写本など、多様な写本が作られています。

写本の所蔵者

近代以前は、源氏物語の写本は主に天皇家、公家、武家、神社、寺院などが所蔵していました。明治時代以降は、財閥など個人のコレクションに移り、一部は海外へ流出しました。第二次大戦後は、財閥解体や税制改正などを契機に、多くの写本が大学や公的な研究機関に収蔵されるようになりました。

源氏物語写本は、その歴史的・文学的価値から、今後も重要な研究対象であり続けるでしょう。 本文系統の分類や写本の現状、そして作成と伝来の歴史を丁寧に紐解くことで、源氏物語という作品が、いかに人々の間で大切にされ、受け継がれてきたのかが見えてきます。

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