源氏物語玉の小櫛

本居宣長の代表作『源氏物語玉の小櫛』：近世源氏学を塗り替えた注釈書

『源氏物語玉の小櫛』は、江戸時代中後期を代表する国学者、本居宣長による『源氏物語』の注釈書です。1799年（寛政11年）に刊行された全9巻からなる大著であり、宣長の約40年にわたる『源氏物語』研究の集大成と言えるでしょう。宣長が提唱した「もののあはれ」という概念を軸に、『源氏物語』解釈に革命をもたらしたことで知られています。

著者の生涯と『玉の小櫛』の成立

本書は、宣長の京都での遊学を終え、故郷の松坂に戻った翌年から始まった、門人への長年の講義内容をまとめたものです。宣長29歳からの、実に3回半にも及ぶ講義内容が凝縮されています。特に、第1巻と第2巻は、宣長34歳の時に執筆された『紫文要領』の改訂版であり、第3巻は『源氏物語年紀考』の改訂版と捉えることができます。これらの初期の研究成果を土台に、長年の研鑽を積み重ねた集大成が『源氏物語玉の小櫛』なのです。

書名は、巻頭に記された宣長自身の歌「そのかみのこゝろたづねてみだれたるすぢときわくる玉のをぐしぞ」に由来すると考えられています。当初は「源氏物語玉の小琴」という名称が予定されていたという説も存在します。

本書の執筆は、松平康定の強い依頼がきっかけだったと伝えられています。かねてから『紫文要領』で『源氏物語』論を展開していた宣長は、補筆して本書を執筆しようと企図していましたが、『古事記伝』の執筆などで多忙を極め、断念していました。康定の熱意が、この大著の誕生を後押ししたと言えるでしょう。

『源氏物語玉の小櫛』の革新性

『源氏物語玉の小櫛』の出版は、『源氏物語』研究史における画期的な出来事でした。それまでの研究は、中世的な伝承や仏教・儒教的な解釈に偏っていましたが、宣長は独自の視点から『源氏物語』を純粋な物語として捉え直しました。

宣長は、自らの和歌における文学観を応用し、物語の本質を「もののあはれ」に求めました。勧善懲悪説や好色の戒めといった従来の道徳的解釈を否定し、人間の純粋な感動を重視する独自の物語論を展開したのです。この革新的なアプローチは、近代以降の『源氏物語』研究の基礎を築き、「新注」と呼ばれる新たな研究潮流を生み出しました。

各巻の内容

全9巻からなる本書は、大きく分けて総論部分（第1巻、第2巻）、年立論（第3巻）、本文校勘（第4巻）、各巻注釈（第5巻～第9巻）の五つの構成になっています。

総論部分（第1巻、第2巻）： 物語論全般、『源氏物語』の作者、成立背景、題名、注釈方法などについて、従来の説を批判的に検討し、宣長独自の解釈を提示しています。「もののあはれ」を主題として詳細に論じ、『源氏物語』の主題を勧善懲悪や仏教的戒めとして解釈する従来の説を明確に否定しています。「此物語は、よの中の物のあはれのかぎりを、書あつめて、よむ人を、深く感ぜしめむと作れる物」という宣長の言葉が、本書の核心を端的に示しています。特に、「蛍巻」における光源氏と玉鬘の物語論を分析し、「物のあはれ」こそが『源氏物語』の真髄であると結論づけています。
年立論（第3巻）： 『源氏物語』の各巻の年代考証に当たっており、『源氏物語年紀考』の改訂版と言えるでしょう。
本文校勘（第4巻）： 当時の主流であった『湖月抄』を底本とし、他の写本と比較しながら本文の校訂を行っています。
各巻注釈（第5巻～第9巻）： 各巻の本文に対し、一語一句丁寧に注釈を加えています。特に契沖の『源注拾遺』を重視した注釈が多いのが特徴です。

『源氏物語玉の小櫛』の影響とその後

『源氏物語玉の小櫛』は、それ以降の『源氏物語』研究に多大な影響を与えました。宣長の「もののあはれ」論は、近代以降の文学研究にも大きな影響を与え、現在に至るまで多くの研究者によって検討されています。本書は、単なる注釈書にとどまらず、独自の文学論を展開した画期的な著作として高く評価されています。 また、本書の刊行によってそれまでの『源氏物語』研究を「古注」と区別し、「新注」という新たな時代を切り開きました。

数多くの版本が刊行されており、現代においても『源氏物語』研究の基礎文献として重要な位置を占めています。現代語訳も存在し、現代の読者にも親しみやすい形でその内容に触れることができます。

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