神田事件 (将棋)

神田事件は、昭和の将棋史において特筆すべき出来事の一つです。1935年（昭和10年）、初めて実力によって最高位である名人を決定しようという「実力制名人戦」が始まった矢先に発生しました。この事件は、神田辰之助七段（当時の段位）の八段昇段資格を巡る意見の対立が引き金となり、当時の日本将棋連盟が一時的に分裂するという前代未聞の事態に発展しました。

当時の将棋界は、東京を中心とする日本将棋連盟と、関西を拠点とし坂田三吉八段や神田七段を擁して大阪朝日新聞が支援する「十一日会」という勢力が併存し、緊張関係にありました。こうした背景の中、十三世名人であった関根金次郎名人が自らの名人位を返上し、全八段によるリーグ戦形式で初代実力制名人を決定することが決定されます。

事件の直接的な発端は、この名人戦の参加資格を巡る問題でした。名人戦は八段リーグとして開催されることになったため、神田七段がこれに参加するには八段への昇段が必要でした。そこで、神田七段は東京の全七・八段棋士との特別対局に臨みます。この対局で神田七段は、特に八段陣に対しては8戦全勝、七段戦を含めても11勝4敗という優れた成績を収めました。この結果を受けて、大阪朝日新聞は神田七段の八段昇段を強く主張します。

しかし、これに対し日本将棋連盟側は、対局は昇段を約束したものではないと反論。これが大きな波紋を呼び、連盟内部でも神田昇段の賛否を巡って激しい論争が巻き起こります。事態は収拾がつかず、ついに同年11月、神田七段の昇段に賛成する立場の棋士たちが連盟を脱退。神田七段らの「十一日会」と合流し、「革新協会」を結成しました。この革新協会には、花田長太郎八段や金子金五郎八段といった有力棋士をはじめ、その弟子たちである坂口允彦六段、塚田正夫六段、荒巻三之三段、小堀清一三段、さらには小泉雅信七段らが名を連ね、東西の棋士を含む一大勢力となりました。革新協会は翌年3月には大阪朝日新聞本社で神田八段昇段と協会結成を祝う会合を開催します。

一方、日本将棋連盟は、脱退した棋士たちを除名処分とし、さらに新たな八段として萩原淳七段を昇段させて名人戦リーグを継続するという強硬な姿勢をとりました。

しかし、有力棋士である花田・金子の両八段を欠いたまま名人戦を続行しても、その権威が損なわれ、将棋ファンからの支持も得られないことは明らかでした。この状況を最も憂慮していたのは、中立の立場を保ちつつも、花田八段は弟子であり、金子八段は孫弟子にあたる関根名人でした。関根名人は、この事態を収拾すべく、将棋界を引退して久しい兄弟子である小菅剣之助八段（72歳）に仲裁を依頼することを決意します。関根名人は木村義雄八段と山本樟郎七段を伴い、三重県で隠居していた小菅八段のもとを訪ねました。当初、将棋界から離れて長いことを理由に固辞していた小菅八段も、関根名人の熱心な懇請に心を動かされ、仲裁を引き受けることになりました。

関根名人と小菅八段の尽力により、交渉は進展し、1936年（昭和11年）6月29日、東京・上野公園にある「精養軒」にて和解のための手打式が執り行われ、将棋界の再統一が実現しました。この結果、日本将棋連盟と関西の十一日会の棋士たちが一つにまとまり、新たな組織として「将棋大成会」が発足しました。この名称は関根名人と小菅八段によって命名されたものです。また、懸案であった神田辰之助七段と萩原淳七段の両名の八段昇段が正式に認められ、中断していた名人戦リーグも再開されることとなりました。ただし、坂田三吉ただ一人は、この将棋大成会には加わらず、独自の道を歩むことになります。

将棋大成会は、この混乱を収拾し、将棋界の統一に多大な功績のあった小菅剣之助八段に対し、深く感謝の意を表すため、1936年11月6日付けの声明において、史上初の「名誉名人」という称号を贈呈しました。

将棋大成会はその後も将棋界の中心組織として活動を続け、1947年（昭和22年）には名称を再び「日本将棋連盟」と改め、現在の組織へと繋がっています。神田事件は、実力制名人戦という新時代への移行期に、将棋界が直面した内部対立と、それを乗り越えて統一組織を再建した歴史的な出来事として記憶されています。

もう一度検索