聖トマス

「聖トマス」（せいトマス）という名称は、一人の特定の人物や事物だけを指すのではなく、歴史上や文化において複数の異なる対象を指しうる多義的な言葉です。特にキリスト教の伝統において重要な意味を持ち、この名を冠する聖人や著名な人物、そしてそれに由来する様々な事物や場所が存在します。

この名前がまず想起させるのは、イエス・キリストの十二使徒の一人であるトマス（使徒）でしょう。彼の生年は明らかになっていませんが、紀元72年頃に没したと伝えられています。使徒トマスは、イエスの復活をすぐには信じず、「傷跡に触れてみなければ信じない」と述べたことから「疑い深いトマス」として知られますが、後に復活したイエスと対面し、その傷跡に触れる機会を与えられて深く信仰を告白した逸話は有名です。伝承によれば、彼は遠くインドまで赴き、キリスト教を伝えたとされており、現在もインドには聖トマスに起源を持つとされるキリスト教共同体が存在します。

歴史上の著名な人物としては、中世ヨーロッパにおける偉大な神学者・哲学者であるトマス・アクィナス（1225年頃 - 1274年）が挙げられます。彼はカトリック教会において「教会博士」の一人に数えられ、古代ギリシャの哲学者アリストテレスの思想をキリスト教神学に取り入れ、壮大な体系を築き上げました。主著である『神学大全』は、現代に至るまでカトリック神学の基礎の一つとされています。「天使的博士」とも称され、その思弁的な深遠さで知られています。

また、イングランドの歴史においては、トマス・ベケット（1118年 - 1170年）が「聖トマス」として尊ばれています。彼はカンタベリー大司教として、当時のイングランド王ヘンリー2世と教会の権益を巡って対立し、カンタベリー大聖堂内で殉教しました。その死後、列聖され、カンタベリーは重要な巡礼地となりました。

ルネサンス期イングランドの思想家で政治家であるトマス・モア（1478年 - 1535年）もまた、カトリック教会によって列聖されています。イングランド大法官としてヘンリー8世に仕えましたが、王の離婚問題とそれに伴うローマ教会からの離脱に反対し、信仰のために処刑されました。彼の著した『ユートピア』は、理想社会を描いた古典として現代でも広く読まれています。

さらに、日本の江戸時代におけるキリシタン殉教者の中にも「聖トマス」の名を持つ人物がいます。トマス西（1590年 - 1634年）は、ドミニコ会の司祭で、長崎で殉教しました。彼は「聖トマス西と15殉教者」として列福・列聖された日本人殉教者の一人です。

「聖トマス」という名称は、これらの人物にちなんで、あるいは独立して、様々な事物や場所にも名付けられています。

有名なものとしては、ドイツのライプツィヒにある聖トーマス教会があります。このルター派教会は、偉大な作曲家ヨハン・ゼバスティアン・バッハが長年カントル（教会音楽監督）を務めた場所として世界的に知られています。この教会に付属するトーマス教会少年合唱団は、長い歴史と高い芸術性で名高い合唱団です。この教会や合唱団の名にちなんで、小惑星「トマーナ」も命名されました。

教育機関としては、かつて兵庫県尼崎市に存在したカトリック系の私立大学である聖トマス大学がありました。世界には他にも同名の、あるいは類似した名称の大学が存在するため、「聖トマス大学 (曖昧さ回避)」のような整理が必要とされることもあります。

芸術作品にも「聖トマス」を主題としたものがあります。フランスの画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥールは、「聖トマス」を描いた絵画を複数制作しており、日本の国立西洋美術館やフランスのルーヴル美術館に所蔵されています。

また、「聖トマス」は各国語で様々に表現され、それが地名などに用いられる例も見られます。例えば、英語ではセント・トーマス（セント・トーマス島など）、ポルトガル語ではサントメ（サントメ・プリンシペなど）、スロベニア語ではスヴェティ・トマシュといった表現があります。これらの名称も、元をたどれば多くは使徒トマスに由来すると考えられます。

このように、「聖トマス」という言葉は、紀元1世紀の使徒から中世の神学者、近世の殉教者に至るまで、多様な人物を指し、さらに彼らにちなんだ教会、大学、芸術、地名など、幅広い分野と関連を持つ、歴史と文化において豊かな意味合いを持つ名称と言えます。

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