菜穂子 (小説)

『菜穂子』（なおこ）は、作家・堀辰雄（ほり たつお）による長編小説です。堀文学において、唯一の本格的な「ロマン」（長編物語）と位置づけられ、作者の晩年の代表作として、またその文学の到達点とも称される重要な作品です。

作品は「楡の家」と「菜穂子」の二つの編から構成されています。物語の中心となるのは、母と娘の複雑な関係性です。或る小説家との恋において、ロマンティックな性質を内に秘めつつ生きた母。そして、母の恋愛に反発心を抱きながらも、母と同じ資質と、それ以上の破滅への傾きを自分の中に見出す娘・菜穂子。彼女は、母が大切にした「永遠にロマネスクなもの」をあえて拒絶し、心の安寧を求めて愛情のない結婚へと逃避します。

不幸な結婚生活に苦しむヒロインが、病（結核）を得て故郷に近い療養所に入院します。そこで幼馴染の都築明（つづき あきら）と再会したことを契機に、自己の存在と向き合い、「生」の意味を模索し葛藤を深めてゆく過程が描かれます。このヒロインの心の動きは、美しくも厳しい信州の自然を背景に、菜穂子を想う明の孤独な旅路や、夫・黒川圭介（くろかわ けいすけ）の心理と対照的に描かれる「対位法」的な構成によって紡ぎ出されています。

本作の発表は複数回に分かれました。プロローグ的な「楡の家」の第一部は1934年（昭和9年）に雑誌掲載され、単行本『物語の女』に収録されました。約7年後の1941年（昭和16年）に本編「菜穂子」、続いて「楡の家」の第二部にあたる「目覚め」が雑誌掲載され、同年11月にこれらをまとめた単行本『菜穂子』が刊行されました。翌1942年（昭和17年）には、第一回中央公論社文藝賞を受賞しています。

作品の成立には、作者自身の内面や経験が深く関わっています。堀はかつて『美しい村』で失恋の痛みを乗り越えましたが、モーリアックの小説論に触発され、「ロマン」の創作へと再び意識を向けます。『物語の女』執筆後、その続編を構想中に婚約者を失い、『風立ちぬ』を先に執筆することになりますが、『物語の女』の続編への思いは消えず、病を抱えながらも構想を温め続けた末、本作が誕生しました。堀自身は執筆動機を、「『物語の女』の女主人公を母に持ち、その資質を受け継ぎながらもそれに反発する若い女性が、母が守ろうとしたロマンティックなものを拒絶しようとする試みが、自分の野心を刺激した」と語っています。

登場人物にはモデルがいます。ヒロインの母・三村夫人は片山広子、その恋人・森於菟彦は芥川龍之介がモデルとされています。また、菜穂子や幼馴染の都築明には作者自身が投影されていますが、明には堀の愛弟子・立原道造の影響も大きく、彼の夭折が作品に反映されています。

『菜穂子』に登場する追分村の人々を巡る挿話は、後に小品集「ふるさとびと」として発表され、本作の連作と見なされることもあります。

本作の評価・解釈は多岐にわたります。長年「ロマン」を目指しながらも病により長編が書けなくなった堀にとって、『菜穂子』は唯一の到達点となりました。作品構造については、菜穂子の物語から都築明の比重が増していくのは立原道造の夭折が関わっているという指摘や、菜穂子と明がそれぞれ「生者」と「夭折者」の運命を対比的に示す主題であるという分析があります。文芸評論家の三島由紀夫は、本作が西洋的な手法と王朝女流日記の伝統を融合させ、小説から現実性・実在感（アクテュアリティー）を排除することで、日本的な「古典性」の達成を試みた点に着目しました。三島は主要な副人物の描写には難を指摘しつつも、ヒロイン菜穂子は「どんなに周囲の物語が変貌しても、菜穂子だけは古びない」と高く評価し、その理由を「作者が真に創造し、文体と呼吸する人物だから」と述べています。竹内清己は、母娘に引き継がれる存在様式の問いや、近代においてロマネスクなものを望めなくなった人間の実存の悲劇を描いていると解釈しています。

堀辰雄の『菜穂子』は、自己と生への問いを深めた晩年の作家が、精緻な文体と構成で描き出した、日本近代文学における重要な長編作品と言えるでしょう。

主な刊行本には、岩波文庫版などがあります。また、1961年（昭和36年）にはNETテレビ（現・テレビ朝日）でテレビドラマ化もされています。

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