麟 (織田信長の花押)

織田信長の花押「麟」字型について

織田信長は、永禄8年（1565年）頃から文書に「麟」の字を模した花押を使用し始めました。この花押は、中国の伝説上の生物である「麒麟」を意味するとされ、麒麟は理想的な政治が行われている世に現れると信じられていました。この花押が使われ始めた背景には、室町幕府将軍・足利義輝の非業の死（永禄の政変）がありました。このため、この花押は平和な社会の実現を目指した信長の理想を示すものと解釈されています。

しかし、この解釈には様々な異論も存在します。「麟」の字ではなく「信長」の字を表しているとする説、足利家の花押との連続性を指摘する説、そして平和社会の実現の主体を信長ではなく足利義昭とする説などが提唱されています。これらの異論は、信長の花押が単純な理想の表明ではなく、複雑な政治的意図や歴史的背景を反映している可能性を示唆しています。

使用の経緯

花押は、文書において署名の代わりに使用される特殊な記号です。信長は生涯で何度も花押の形状を変更しており、細かく分類すると10種類以上、大別すると3種類の花押を使用したとされています。初期の花押は伝統的な足利家の形式を踏襲したもので、これは父の織田信秀も使用していました。次に、天文21年（1552年）から使用した花押は、実名の「信長」の字を裏返したものでした。この変更の背景には、盗用や偽造を防ぐという目的があったと考えられています。

そして、3種類目の花押が「麟」字型の花押です。2012年時点で確認されている限りでは、この花押が初めて使用されたのは、永禄8年9月の信長の発給文書です。この花押の一新は、盗用防止といった従来の目的から離れ、政治理念の表明という新たな意味を持つようになりました。この「麟」の花押には、平和な社会の実現という信長の理想が込められていると解釈されています。

信長は美濃を攻略した後、永禄10年（1567年）11月から「天下布武」の印章を使い始めました。「麟」字型の花押は「天下布武」印とともに使用されましたが、重要度の高い文書に限定されるようになりました。天正4年（1576年）に本拠を安土城に移して以降は、「天下布武」の印章が多くの文書に捺されるようになり、花押は他の戦国大名や公家に宛てた特別な文書のみに使われるようになりました。

解釈

定説（佐藤進一の説）

この花押が何の文字を意味するのか、当初は研究者の間でも不明でした。日本中世史研究者の佐藤進一も、初めて見たときにはこの花押を解読できなかったと述べています。しかし、佐藤は勝海舟（勝麟太郎）の花押「麟」と比較することで、信長の花押も「麟」の字に基づいている可能性に気づきました。

勝海舟の花押「麟」は、「麟」の字の草書体の下半分が左右に開いた形をしています。佐藤によれば、信長の花押「麟」は、勝海舟の花押よりも記号化が進んでおり、「鹿」の草書体の書き出し部分と「米」の部分を省略しています。「麟」は、中国の伝説上の生物「麒麟」の雌を意味する字ですが、中世日本では「麒麟」は理想的な政治が行われている社会にのみ現れると信じられていました。そのため、信長が「麟」の花押を使用したことは、「至治の世、平和な時代への願望」を表明したものだと佐藤は解釈しています。また、信長が平和社会の実現を自身の力で達成しようという理想が込められている可能性も指摘しています。このような願望を込めた花押は信長だけではなく、竹中半兵衛重治の晩年の花押「千年おゝとり」（鳳凰）にも同様の意図が見られます。

この花押使用のきっかけとなったのは、永禄の政変であったと考えられます。室町幕府将軍・足利義輝が謀反によって殺害されたこの事件の影響から、信長は「麟」の字の花押を使い始め、その後「天下布武」の印章も使用するようになったとされています。

異論

佐藤進一の解釈は定説となっていますが、以下のような異論も存在します。

柴辻俊六、山本浩樹の説

柴辻俊六や山本浩樹は、そもそもこの花押が「麟」の字であるという見方自体に疑問を呈しています。柴辻は、この花押が何を表しているのか考察することは不可能だと述べています。一方、山本は、この花押が天文21年からの実名「信長」の花押と類似しており、「長」の部分を倒置から正置に変更したものだと解釈できるとしています。

石崎建治の説

石崎建治は、この花押が「麟」の字であることを認めつつも、伝統的な足利家の花押との連続性を指摘しています。石崎によれば、「麟」字型の花押は、「瓦」字に類似する形状や上端部の横線など、足利家の花押の構造を踏襲していると考えられます。信長が最初に用いた足利家の花押だけでなく、足利義輝など歴代足利将軍の花押にも、「麟」字型の花押との類似性が見られるといいます。石崎は、この類似性から、この花押は「麟」の字と足利家の花押の融合であると解釈できると述べています。この解釈は、信長が室町幕府の政治構造に対して一定の敬意を払いながら、室町幕府を引き継ぐ形で「天下統一」を達成しようとした意識を示しているとされています。

高木叙子の説

佐藤進一は「麟」の花押について、信長が「自らの力で」平和社会を実現しようとした可能性を指摘していますが、高木叙子はこの「自らの力で」という部分に異議を唱えています。高木によれば、伝説上、麒麟は聖人が現れた時に姿を見せる聖獣であり、ここでいう聖人とは、次期将軍候補であった足利義昭（義輝の弟）のことであるとしています。

高木は、信長がこの花押を使用し始めたのは、義昭から上洛支援の要請を受けた直後であることから、義昭こそが信長の「待望の聖君」であったと解釈しています。そして、義昭を君主として推戴し、室町幕府の政治に関わろうとした信長の意図が、この花押に示されていると主張しています。近年では、信長の印章「天下布武」にも全国統一のような意図はなかったと考えられており、高木説は、足利義昭による理想社会の実現という視点から、説得力のある解釈として支持されています。


このように、織田信長の花押「麟」字型については、様々な解釈が存在します。花押の形状、使用時期、そして当時の政治状況を総合的に考慮することで、信長の意図や思想をより深く理解することができるでしょう。今後の研究によって、さらに新たな解釈が生まれる可能性も十分にあります。

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