アンリ・コアンダ

アンリ・マリ・コアンダ（ルーマニア語ではヘンリ・マリエ・コアンダ、1886年6月7日 - 1972年11月25日）は、ルーマニアが生んだ卓越した発明家であり、近代航空力学の発展に多大な足跡を残した先駆者です。彼は世界初のモータージェット機を製作し、後に彼の名が冠されることになる「コアンダ効果」を発見しました。

コアンダは1886年、ルーマニアの首都ブカレストに、大家族の2番目として生を受けました。父コンスタンチン・コアンダ将軍は国立橋梁・道路学校で数学を教え、母エダ・ダネはフランスの医師の娘でした。幼い頃からコアンダは、風の動きやその不可思議な現象に強い魅力を感じていたと後に語っています。

彼の教育歴は多岐にわたります。初めはブカレストの学校で学び、続いて名門リセイ・スフ・サバに進みました。3年後、彼を軍人にしたかった父の意向で、ヤシの軍学校に転校します。ここで曹長の階級を得て卒業後、ブカレストの火器・軍事・海軍工学学校でさらに学びを深めました。1904年には砲兵連隊の一員としてドイツへ派遣され、ベルリンのシャルロッテンブルク工科大学（現在のベルリン工科大学）に入学します。火器士官として卒業しましたが、彼の真の関心は飛行に関する技術的な課題に向けられていました。

1905年、コアンダはルーマニア陸軍で「投射飛行機」を試作します。1907年から1908年にかけてはベルギーのモンテフィオーレ大学で学び、そこで後に協力者となる航空機設計者のジャンニ・カプローニと出会いました。1908年にルーマニアに戻り、現役士官として軍務に就きましたが、発明家としての気質は軍の規律にはなじまず、願い出て軍を離れました。その後、彼は新たに得た自由を活かし、イスファハン、テヘラン、チベットといった東方への長い自動車旅行に出かけます。

1909年にヨーロッパに戻ったコアンダは、フランスのパリに移住し、新設された国立航空宇宙大学院大学（SUPAERO）に入学しました。翌1910年には航空工学のクラスを首席で卒業するなど、その才能を開花させます。エッフェル塔で知られる技師ギュスターヴ・エッフェルや、数学者で航空工学の先駆者でもあるポール・パンルヴェといった著名な支援者を得て、彼は本格的な空気力学実験を開始しました。時速90kmで走行する列車の側面に模型を取り付けたり、風洞に煙や天秤を用いて翼の形状を研究したりする中で、彼は後に「コアンダ効果」として知られることになる重要な空気力学的現象を発見する手がかりを得ました。

そして1910年、コアンダはジャンニ・カプローニの工房を借りて、歴史上初のモータージェット搭載機「コアンダ=1910」を設計、製作、試験しました。この画期的な機体は、同年にパリで開催された第二回国際航空工学展覧会で披露されました。その動力は、レシプロエンジンで駆動する圧縮機が二つの燃焼室に空気を送り込み、プロペラを用いずにジェット推力を生み出すという、当時としては極めて先進的なものでした。ジェット推進を利用した次の飛行機、カプロニ・カンピニ N.1の登場は、実にその約30年後のことでした。しかし、パリ近郊での試験飛行中にコアンダ=1910は操縦不能となり、滑走路を外れて炎上してしまいます。コアンダ自身は顔や手に軽傷を負う程度で脱出に成功しましたが、この事故と、当時の世間や科学技術団体からの関心・援助の不足により、このモータージェット機に関する彼の実験は一旦中断されました。

1911年から1924年にかけて、コアンダはイギリスに渡り、ブリストル飛行機会社の技術監督として活躍しました。ここで彼は「ブリストル・コアンダ機」として知られる複数の航空機を設計し、1912年にはそのうちの一機がイギリスで開催された国際軍事航空コンテストで優勝を飾りました。

第一次世界大戦中の1915年には再びフランスへ戻り、サン＝ドニにあるドゥロネー・ベルヴィル社で勤務しました。彼はここで3種類のプロペラ機を設計し、その中には尾部の胴体に2つのプロペラを配置したユニークな設計の「コアンダ=1916」も含まれていました。この尾部プロペラという特徴は、後に彼が技術顧問として関与したフランスのジェット旅客機「カラベル」にも影響を与えたと言われています。

戦間期、コアンダは旅行と発明を続けました。この時期の特筆すべき発明には、世界初のジェット駆動スノーモービルや、空気力学を応用した豪華鉄道車両などがあります。また、建築分野では、木質コンクリート「ベトン・ボワ」（béton-bois）という新しい装飾材を発明し、ルーマニアのヤシにある「文化の館」などで実際に使用されました。1926年にはルーマニアで、地下の液体（特に石油）を探知する装置を開発し、ペルシア湾での沖合い油井掘削システム設計にも関わっています。

おそらくコアンダの最も有名な貢献は、彼自身の名が冠されたコアンダ効果の発見でしょう。これは、流体（液体や気体）の噴流が凸状または平坦な表面に沿って流れる現象を指します。コアンダは、コアンダ=1910の墜落事故の際、炎と白熱したガスが機体の胴体に沿って拡散せずに流れた様子を見て、この現象の存在に気づいたと言われています。この現象を同僚とともに20年以上にわたって研究した後、彼は自身の研究成果を論文として発表しました。この現象に「コアンダ効果」と命名したのは、後にフランスの科学者アルベール・メトラルでした。コアンダ効果は、航空工学における多くの発明、特に高揚力装置や推力偏向技術などに活用されており、超音速飛行の実現にも不可欠な原理の一つとされています。コアンダはこの原理に基づき、1935年にはホバークラフトの原型ともいえる円盤形の機体「アエロディナ・レンティクララ」（Aerodina Lenticulara）を考案しました。これは後にアブロ・カナダ社が開発し、アメリカ空軍が評価した円盤形航空機（空飛ぶ円盤のように見えた）と外見がよく似ていました。

1969年、チャウシェスク政権初期の頃、コアンダは晩年を祖国ルーマニアで過ごすため帰国しました。彼は科学・技術創造研究所（INCREST）で指導的立場に就き、この組織は後にブカレスト総合工業大学の航空宇宙工学科として再編されました。コアンダは1972年11月25日、86歳でブカレストにてその波乱に富んだ生涯を終えました。

彼の功績は今日でも広く認められています。ブカレストの国際空港は彼の名誉を称え、「アンリ・コアンダ国際空港」と命名されています。彼は生前、現在の飛行機を「紙製の子供のおもちゃの完成品にすぎない」と評し、「全く異なる飛行原理に基づいた、別の飛行機械を探求すべきだ」と主張しました。そして、「垂直に離陸し、通常通り飛行し、垂直に着陸する、可動部品のない未来の航空機を想像している。このアイデアはサイクロンの巨大な力から着想を得た」と語っており、その革新的な思想は現代のVTOL機やUAVにも通じるものがあります。彼は1956年にニューヨークで最初のジェット機の発明者として表彰され、「航空の過去、現在、未来そのもの」と称賛されたのをはじめ、ハリー・ダイアモンド研究所賞やユネスコ賞など、数多くの賞を受賞しています。アンリ・コアンダは、まさに時代を超えたビジョンを持った、偉大な技術者であり発明家でした。

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