ウイスキー戦争
「ウイスキー戦争」（英語: Whisky War、フランス語: Guerre du whisky）という通称で知られるこの出来事は、カナダとデンマークという二つの北大西洋国家が、北極圏のネアズ海峡に浮かぶ小さな無人島、ハンス島の帰属を巡って長年にわたり繰り広げた領有権問題です。この紛争は、1973年12月17日に両国間の海洋境界線が初めて画定された際にハンス島周辺の扱いが未決とされたことから始まり、2022年6月14日に島を分割して領有することで最終的に合意するまで、約48年もの期間に及びました。
この領有権争いがユニークなのは、その「戦い方」にあります。1984年、カナダ軍がハンス島に上陸し、自国の国旗を掲げた際にカナディアン・ウイスキーのボトルを島に残していきました。これに対し、デンマーク政府は閣僚を派遣してデンマーク国旗とシュナップスのボトルを置き土産としました。これ以降、両国の軍人や政治家が入れ替わりに島を訪れ、自国の国旗や酒瓶を設置したり、相手国のものを撤去したりする「儀式」が繰り返されるようになりました。この一連のユーモラスなやり取りから、「ウイスキー戦争」あるいは「蒸留酒戦争」と呼ばれるようになったのです。人的被害を伴わないこの紛争は、しばしば「最も消極的で積極的な領土紛争」や「最も友好的な戦争」と称されます。
ハンス島は面積わずか1.3平方キロメートルの岩だらけの島で、カナダのエルズミア島とデンマーク領グリーンランドのほぼ中間に位置しています。両大陸から約18キロメートルの距離にあり、これは海洋法に関する国際連合条約に基づき、どちらの国も主権を主張できる距離に該当します。島の地質は主に変成していない石灰岩で構成され、その上に氷河起源の礫が覆っています。植生は乏しく、鉱物資源もほとんど見つかっていません。沿岸部には強い海流が流れ、冬は厚い氷に閉ざされるため、人が頻繁に立ち入る場所ではありませんでしたが、14世紀以降、グリーンランドのイヌイットが狩猟や流氷観測のために利用していたと考えられています。
ハンス島が西洋世界に知られるようになったのは19世紀半ば、北極点や北西航路を目指す欧米の探検隊による活動を通じてです。特に1853年から1855年にかけて行われたアメリカの探検隊によって発見・命名されたとされています。歴史的に見ると、1880年にイギリスが北極圏の領土をカナダに譲渡した際、ハンス島が含まれるかどうかが明確ではありませんでした。また、20世紀初頭にはアメリカがグリーンランド北西部の領有を主張する可能性もありましたが、1917年にデンマークへのヴァージン諸島売却と引き換えにその主張を放棄しました。1933年の常設国際司法裁判所による東部グリーンランド事件の判決で、デンマークのグリーンランド全体に対する主権が認められたことは、デンマークがハンス島領有権を主張する根拠の一つとなりました。デンマーク側はハンス島がグリーンランドに近く、地質的にも一体であると主張しましたが、カナダ側はエルズミア島に近く、イギリスからの譲渡対象であると反論しました。現在の衛星画像解析では、ハンス島はエルズミア島とグリーンランドのほぼ中間線上にあることが確認されています。
領土紛争が公式に始まったのは1971年、両国が海洋境界線画定交渉を行った際、カナダがハンス島の領有権を主張したのに対し、デンマークがこれを係争地として認識した時です。1973年、両国間の大陸棚境界画定協定が結ばれましたが、ハンス島については合意に至らず、島の両側に測量点を設けることで、その間の境界線を未画定とする特別な措置が取られました。研究者のクリストファー・スティーブンソン氏は、この措置を「島の片側の低潮線で国境を止め、反対側の低潮線で復活させる」かのようだったと評しています。
紛争が一般に広く知られるようになったのは1984年、カナダの歴史家ケン・ハーパー氏の記事がきっかけでした。ハーパー氏はカナダの石油会社がハンス島で調査を行っていることを知り、これは両国間の非公式な合意に反する行為であり、ハンス島はグリーンランドのイヌイットが伝統的に利用してきたことからデンマーク領であるべきだと主張しました。この記事が両国の当局の目に留まり、先に述べたようなカナダ軍とデンマーク政府による「酒瓶交換」の応酬へと発展したのです。
当初はほとんど価値がないと見なされていたハンス島ですが、地球温暖化による北極圏の氷解が進むにつれて、北西航路の重要性が増したり、周辺での資源開発や漁業の可能性が浮上したりしたことで、その戦略的な関心が高まりました。2005年にはカナダ国防相が島を訪問したことで再び緊張が高まる場面もありましたが、同年中には両国外相が協力して解決を目指すことで合意しました。この時期の緊張は、両国の国内政治（カナダの政権支持率やデンマークの議会選挙）との関連性も指摘されています。また、紛争中も両国の研究機関が共同でハンス島に無人気象観測所を設置するなど、学術協力は進められました。この際、カナダ政府は大学単独での設置を認めず、デンマーク側との共同作業を強く要請したといい、主権の主張を避けるための配慮があったことが窺えます。
長年にわたる友好的な対立を経て、2018年には正式な解決に向けた作業部会が設置されました。そして2022年6月11日、両国政府に加え、カナダのヌナブト準州政府、デンマーク領グリーンランド自治政府も加わった協議の結果、ハンス島を島の岩場にある自然の裂け目に沿って分割して領有することで合意が成立しました。6月14日にオタワで行われた調印式では、カナダとデンマークの外相が象徴的にカナディアン・ウイスキーとシュナップスを交換し、約半世紀に及ぶ「ウイスキー戦争」の終結を祝いました。両外相は、この紛争が「世界で最も平和的な争い」であったと振り返り、特にロシアによるウクライナ侵攻が続く中で、領土紛争は武力ではなく外交と国際法によって解決できるというメッセージを世界に発信する意義を強調しました。なお、島の分割後も、伝統的にハンス島を利用してきたイヌイットの住民は、国境線を越えて島全体に自由に立ち入ることが認められています。
この平和的な解決により、カナダとデンマークは初めて陸上国境で接することになりました。ハンス島の領有権は両国政府にとって重要な懸案でありながら、両国民の間ではしばしばユーモアをもって語られる話題でした。この紛争を通じて、両国は北大西洋条約機構（NATO）の創設メンバーであり、共通の価値観を持つ友好国として、対立の中でも協力関係を維持し続けました。「ウイスキー戦争」の終結は、国際法と外交による平和的な問題解決が可能であることを示す好例として、国際社会から注目を集めました。
この領有権争いがユニークなのは、その「戦い方」にあります。1984年、カナダ軍がハンス島に上陸し、自国の国旗を掲げた際にカナディアン・ウイスキーのボトルを島に残していきました。これに対し、デンマーク政府は閣僚を派遣してデンマーク国旗とシュナップスのボトルを置き土産としました。これ以降、両国の軍人や政治家が入れ替わりに島を訪れ、自国の国旗や酒瓶を設置したり、相手国のものを撤去したりする「儀式」が繰り返されるようになりました。この一連のユーモラスなやり取りから、「ウイスキー戦争」あるいは「蒸留酒戦争」と呼ばれるようになったのです。人的被害を伴わないこの紛争は、しばしば「最も消極的で積極的な領土紛争」や「最も友好的な戦争」と称されます。
ハンス島は面積わずか1.3平方キロメートルの岩だらけの島で、カナダのエルズミア島とデンマーク領グリーンランドのほぼ中間に位置しています。両大陸から約18キロメートルの距離にあり、これは海洋法に関する国際連合条約に基づき、どちらの国も主権を主張できる距離に該当します。島の地質は主に変成していない石灰岩で構成され、その上に氷河起源の礫が覆っています。植生は乏しく、鉱物資源もほとんど見つかっていません。沿岸部には強い海流が流れ、冬は厚い氷に閉ざされるため、人が頻繁に立ち入る場所ではありませんでしたが、14世紀以降、グリーンランドのイヌイットが狩猟や流氷観測のために利用していたと考えられています。
ハンス島が西洋世界に知られるようになったのは19世紀半ば、北極点や北西航路を目指す欧米の探検隊による活動を通じてです。特に1853年から1855年にかけて行われたアメリカの探検隊によって発見・命名されたとされています。歴史的に見ると、1880年にイギリスが北極圏の領土をカナダに譲渡した際、ハンス島が含まれるかどうかが明確ではありませんでした。また、20世紀初頭にはアメリカがグリーンランド北西部の領有を主張する可能性もありましたが、1917年にデンマークへのヴァージン諸島売却と引き換えにその主張を放棄しました。1933年の常設国際司法裁判所による東部グリーンランド事件の判決で、デンマークのグリーンランド全体に対する主権が認められたことは、デンマークがハンス島領有権を主張する根拠の一つとなりました。デンマーク側はハンス島がグリーンランドに近く、地質的にも一体であると主張しましたが、カナダ側はエルズミア島に近く、イギリスからの譲渡対象であると反論しました。現在の衛星画像解析では、ハンス島はエルズミア島とグリーンランドのほぼ中間線上にあることが確認されています。
領土紛争が公式に始まったのは1971年、両国が海洋境界線画定交渉を行った際、カナダがハンス島の領有権を主張したのに対し、デンマークがこれを係争地として認識した時です。1973年、両国間の大陸棚境界画定協定が結ばれましたが、ハンス島については合意に至らず、島の両側に測量点を設けることで、その間の境界線を未画定とする特別な措置が取られました。研究者のクリストファー・スティーブンソン氏は、この措置を「島の片側の低潮線で国境を止め、反対側の低潮線で復活させる」かのようだったと評しています。
紛争が一般に広く知られるようになったのは1984年、カナダの歴史家ケン・ハーパー氏の記事がきっかけでした。ハーパー氏はカナダの石油会社がハンス島で調査を行っていることを知り、これは両国間の非公式な合意に反する行為であり、ハンス島はグリーンランドのイヌイットが伝統的に利用してきたことからデンマーク領であるべきだと主張しました。この記事が両国の当局の目に留まり、先に述べたようなカナダ軍とデンマーク政府による「酒瓶交換」の応酬へと発展したのです。
当初はほとんど価値がないと見なされていたハンス島ですが、地球温暖化による北極圏の氷解が進むにつれて、北西航路の重要性が増したり、周辺での資源開発や漁業の可能性が浮上したりしたことで、その戦略的な関心が高まりました。2005年にはカナダ国防相が島を訪問したことで再び緊張が高まる場面もありましたが、同年中には両国外相が協力して解決を目指すことで合意しました。この時期の緊張は、両国の国内政治（カナダの政権支持率やデンマークの議会選挙）との関連性も指摘されています。また、紛争中も両国の研究機関が共同でハンス島に無人気象観測所を設置するなど、学術協力は進められました。この際、カナダ政府は大学単独での設置を認めず、デンマーク側との共同作業を強く要請したといい、主権の主張を避けるための配慮があったことが窺えます。
長年にわたる友好的な対立を経て、2018年には正式な解決に向けた作業部会が設置されました。そして2022年6月11日、両国政府に加え、カナダのヌナブト準州政府、デンマーク領グリーンランド自治政府も加わった協議の結果、ハンス島を島の岩場にある自然の裂け目に沿って分割して領有することで合意が成立しました。6月14日にオタワで行われた調印式では、カナダとデンマークの外相が象徴的にカナディアン・ウイスキーとシュナップスを交換し、約半世紀に及ぶ「ウイスキー戦争」の終結を祝いました。両外相は、この紛争が「世界で最も平和的な争い」であったと振り返り、特にロシアによるウクライナ侵攻が続く中で、領土紛争は武力ではなく外交と国際法によって解決できるというメッセージを世界に発信する意義を強調しました。なお、島の分割後も、伝統的にハンス島を利用してきたイヌイットの住民は、国境線を越えて島全体に自由に立ち入ることが認められています。
この平和的な解決により、カナダとデンマークは初めて陸上国境で接することになりました。ハンス島の領有権は両国政府にとって重要な懸案でありながら、両国民の間ではしばしばユーモアをもって語られる話題でした。この紛争を通じて、両国は北大西洋条約機構（NATO）の創設メンバーであり、共通の価値観を持つ友好国として、対立の中でも協力関係を維持し続けました。「ウイスキー戦争」の終結は、国際法と外交による平和的な問題解決が可能であることを示す好例として、国際社会から注目を集めました。
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