エロ事師たち

野坂昭如の長編小説『エロ事師たち』は、1966年に単行本として発表された、当時33歳だった野坂氏の小説家としての出発点であり、高い文学的評価を得た代表作の一つです。この作品は、人々の「エロ」に対する欲求を満たすため、法律の目をかいくぐりながら様々な性的な享楽を提供することを稼業とする中年男性の生涯を描いています。

物語に登場するのは、「エロ事師」と呼ばれる主人公と、彼を取り巻く猥雑でどこか滑稽、そしてグロテスクな昭和の裏社会です。野坂氏は、そうした現実を、哀愁を帯びた辛辣なユーモアと、日本の古典的な語り物文芸を思わせる独特のリズムを持つ文体で綴りながら、エロティシズムという観念そのものを皮肉な視点から表現しています。

発表の経緯と背景

本作は、元々1963年に雑誌『小説中央公論』に短編として掲載されました。この連載が三島由紀夫氏に絶賛されたことがきっかけで、出版社の依頼により長編として加筆・改稿され、1966年3月に講談社から単行本として刊行されました。後に新潮文庫からも文庫版が出ており、マイケル・ギャラガー氏による英訳版も存在します。雑誌掲載時の初稿版は『野坂昭如コレクション 1』に収録されています。

作品の舞台は1962年から1964年頃で、これは執筆時期とほぼ重なります。主人公の年齢も当時の野坂氏に近く、誕生日が同じ10月10日という共通点があります。また、主人公が住む守口市は、終戦直後に野坂氏が実際に暮らしていた場所でもあります。作中にはブルーフィルム、トルコ風呂、白黒ショー、ゲイバーなど、当時の世相を反映した様々な風俗が織り込まれていますが、これは野坂氏自身がブルーフィルムの蒐集やゲイバーでの勤務経験があったこと、そして裏社会に身を置く人々から得た見聞が色濃く反映されているためです。さらに、主人公の母親が神戸空襲で命を落とした設定や、戦火で見た遺体の凄惨な光景など、野坂氏自身の戦争体験と重なる描写も見られます。主人公の「スブやん」というあだ名は、隣家にいた犬の名前から、義娘「恵子」の名は、野坂氏の妹への思いから着想を得たと言われています。野坂氏自身、晩年に三島由紀夫や吉行淳之介といった文豪がこの作品を評価してくれなければ、今の自分はなかっただろうと述べています。

特異な文体

『エロ事師たち』は性を扱いつつも、写実的なリアリズム文学とは一線を画しています。作品の大部分は、大阪弁による会話と、独特のリズムを持つ地の文で構成されており、これらが複雑に絡み合いながら物語が展開するのが大きな特徴です。このリズム感は、日本の古典的な語り物文芸（軍記物語、義太夫、浪花節など）の伝統を受け継いでいるとされており、これは野坂氏が幼少期から大阪で自然と身につけた感覚が影響していると考えられています。その文章からは、村松梢風晩年の筆致を思わせるものがあり、文体やテーマが醸し出す独特の世界観は、井原西鶴や鶴屋南北といった江戸文学との共通性も指摘されています。

物語の骨子（あらすじ）

理髪店の二階に身を寄せる中年男スブやんは、相棒の伴的らと共に、盗聴やエロ写真販売、女性の斡旋などを生業とする「エロ事師」です。内縁の妻で理髪店主のお春は肺を患い、病状は悪化していきます。お春の娘恵子も登場し、スブやんは彼女の制服を撮影に使うこともありました。スブやんは警察の目を気にしながら、独自の顧客と供給ルートを開拓し、素人の女性を起用します。

お春の妊娠が判明しますが、病のため中絶。五ヶ月の胎児はスブやんが引き取り、仲間たちと共に山本山の海苔缶に入れ、淀川に水葬して弔います。その後、お春は病死。スブやんたちは、お春の棺の前でブルーフィルムを上映して供養を行います。六甲山麓のケチな外科医が変態ブルーフィルムを多数所蔵していることを知ったスブやんは、それを盗み、元事務長のポールを仲間に引き入れます。恵子をゲイバーに連れて行った帰り、二人は親密な雰囲気になりますが、スブやんはインポテンツに悩まされます。その翌朝、彼は変態フィルム販売の件で逮捕されます。釈放されたスブやんを待っていたのは、家出した恵子と、留置所で知り合った美青年カボーでした。カボーは童貞でしたが、女をたやすくナンパできました。

インポテンツが続くスブやんは、カボーやポールが連れてきた女性たちを利用した新たな稼業を始めます。ブルーフィルム販売から次第に大規模な上映会へと移行し、ついには乱交パーティーの主催に熱中します。伴的やポールはスブやんと袂を分かち、スブやんはポールの居場所を暴力団と親しい外科医に密告します。ダッチワイフを使ってインポを克服しようとするスブやんでしたが、人形はカボーの手に渡ります。スブやんは理想の乱交パーティーを企画しますが、結局孤独を感じ、月の下で詩を吟じます。その夜、スブやんが交通事故で死亡したという知らせが入ります。警察署で、カボーは娼婦として逮捕されていた恵子と偶然再会します。病院に駆けつけると、スブやんは死後硬直で勃起した姿でした。恵子とカボーは、その姿に思わず笑ってしまうのでした。

主な登場人物（一部抜粋）

スブやん（喜早時貴）：物語の主人公。豚のように太った中年エロ事師。様々な職を経て現在の稼業に至る。インポテンツに悩む。
伴的：スブやんの相棒でカメラマン。芸術的なフィルム製作を目指す。
お春：スブやんの内縁の妻。肺病を患い、物語中盤で亡くなる。
恵子：お春の娘。女子高生から家出し、娼婦となる。
ゴキ：ブルーフィルムの運び屋。かつて名の知れたエロ事師だった。ゴキブリを飼うのが趣味。
カボー：スブやんの居候となる美青年。TVタレント志望の童貞。

作品評価と影響

『エロ事師たち』は発表当時、既存の日本文学には見られなかった型破りな作品として注目されました。社会の裏面にある赤裸々でグロテスクな性的な現実を描きながらも、下品に陥らない独自の文体が高い評価を受けました。評論家の澁澤龍彦は、その独自の筆致を「庖丁さばき」と呼び、野坂氏を「観念のエロティシズム、欠如体としてのエロティシズムにのみ没頭する一種独特な性の探究家」と評しました。主人公を物語途中でインポテンツに追い込む展開や、結末の滑稽な死に方に、作品全体の「辛辣なアイロニー」が生きていると指摘しています。三島由紀夫は「武田麟太郎風の無頼の文学」と呼び、「醜悪無慚」でありながら「塵芥捨場の真昼の空のやうに明るい」小説だと絶賛し、村松梢風晩年の筆致に似た、雑駁な現実を透明に映し出す筆致を評価しました。また、性的な行為を提供する登場人物たちの姿を、芸術行為の「劇画」、すなわち作家自身の暗喩として読み解いています。本作は、野坂氏が文壇で認められる決定的なきっかけとなった作品として位置づけられています。

メディア展開

映画化: 1966年に今村昌平監督により『「エロ事師たち」より 人類学入門』として映画化されました。第40回キネマ旬報ベスト・テンで第2位に入り、主演の小沢昭一氏が主演男優賞を受賞するなど高い評価を受けました。
ミュージカル化: 1968年には「聖スブやん」の題名でミュージカル劇としても上演されています。

もう一度検索