フィンセント・ファン・ゴッホの手紙

フィンセント・ファン・ゴッホ（1853年3月30日 - 1890年7月29日）は、生涯にわたり多くの手紙を書き残しました。これらの手紙は、彼自身の言葉でその生涯、芸術観、人間関係を詳細に語っており、美術史研究において重要な資料となっています。

手紙の成立

ゴッホ美術館によると、現存するゴッホの手紙は819通に及びます。そのうち、弟テオドルス・ファン・ゴッホ（テオ）に宛てたものが651通と最も多く、さらにテオとその妻ヨハンナ・ファン・ゴッホ＝ボンゲル（ヨー）宛のものが83通あります。その他の宛先としては、画家のアントン・ファン・ラッパルト、エミール・ベルナール、妹ヴィレミーナ・ファン・ゴッホ（ヴィル）などが挙げられます。一方、ゴッホが受け取った手紙は83通残っており、そのうち39通がテオからのものです。

ゴッホの最初の手紙は、1872年9月29日にテオに宛てたもので、当時19歳で画商グーピル商会ハーグ支店で働いていました。この夏にテオがハーグの兄を訪ねたことがきっかけで、二人の手紙のやり取りが始まりました。初期の手紙は仕事のことが多く、比較的短いものでしたが、1875年頃からキリスト教に関心を抱き、聖書からの引用が増えていきました。しかし、聖職者への道を断念すると、宗教的な引用は減少し、自分の感情や考えを表現する手段として手紙を用いるようになります。また、ゴッホにとってテオは、唯一の理解者としての地位を確立していきました。

1880年頃に画家になることを決意してからは、手紙の内容も絵画に集中していきます。テオ、ラッパルト、ポール・ゴーギャン、ベルナールなどに宛てた手紙からは、素描への専念、新たな画材の試み、構図や描写への苦労、読書、他の芸術家との交流、美術館訪問、色彩に関する考え方、南仏でのアトリエ構想など、画業の成長過程が詳細にわかります。一方で、衣食住などの日常生活に関する情報は少ないのが特徴です。

手紙の保存状況

テオは兄からの手紙を大切に保管しており、テオの死後は妻ヨー、そして息子フィンセント・ウィレムに引き継がれ、現在はゴッホ美術館に所蔵されています。しかし、失われた手紙も存在すると考えられています。1879年8月からの家族間の手紙は急激に減っており、テオが保管していなかったか、破棄した可能性があります。ヤン・フルスケルは、この時期の家族間の争いが原因で隠滅された可能性を指摘しています。また、1883年初頭の手紙も失われています。

一方、ゴッホは受け取った手紙をあまり保存しておらず、破棄したり燃やしたりしていたようです。ゴッホ宛の現存する手紙は83通しかなく、そのうち77通は晩年の2年間に送られたもので、特に1888年12月の発作以降のものが多く残っています。1889年4月末以降は、テオとヨーからの手紙がほぼ完全に残っていることから、この頃から手紙を保存するようになったと考えられます。

手紙の中の記述から、現存する902通以外に、ゴッホが書いた手紙約290通、受け取った手紙約550通があったと推定され、合計すると約1750通になります。さらに、記述のないまま失われた手紙も存在すると考えられます。

手紙の刊行史

第1期書簡集の成立まで

テオの死後、未亡人ヨーは、フィンセントの作品を評価されるものにするという決意を日記に記し、手紙の刊行に向けて動き始めました。1892年から1893年にかけて行われたパノラマ展のカタログや、ベルギーの美術誌に、手紙の一部が抜粋掲載されました。また、ゴッホの友人であったベルナールも、雑誌でゴッホの手紙を紹介し始めました。

ベルナールは、1893年からフランスの雑誌で自身の小伝とともに手紙を少しずつ発表しました。彼は手紙の内容を、17世紀のオランダ絵画、新しい絵画、ゴッホの作品と制作状況、ベルナールの作品に対するゴッホの反応、宗教・社会に対する考え方という5つのテーマに沿って選び、手紙の一部を修正・編集して掲載しました。その後、テオ宛の手紙も掲載しましたが、私生活に関わる部分は伏せられました。これらの掲載は前衛美術に関心のある読者に大きな反響を呼び、ドイツなどにも翻訳紹介されました。

第1期書簡集の成立

パリの画商アンブロワーズ・ヴォラールは、雑誌掲載から15年後、完全な書簡集を出版しようと企画し、1911年にベルナールとの契約のもと書簡集を出版しました。しかし、この書簡集は前書き部分が長く、手紙は22通と写真図版100点に留まりました。ベルナールは手紙を修正せずに採録したと述べましたが、実際には人名を伏せたり、下品な言葉を伏字にしたりしていました。

1914年、ヨーはフィンセントの手紙を3巻にまとめた書簡集『Vincent van Gogh, Brieven aan zijn broeder』を刊行しました。この書簡集は、フィンセントからテオ宛の手紙を中心に、両親や母宛の手紙も収録されています。ゴッホが過ごした場所によって時期が分けられ、言語はゴッホが書いたまま収録されました。しかし、この書簡集にも手紙の順序や日付の間違い、人名のイニシャル化、都合の悪い箇所の削除などが指摘されています。

旧完全版まで

1920年頃までに、ゴッホは各国で評価されるようになり、手紙も翻訳出版されました。日本では、1911年に児島喜久雄が『白樺』でゴッホの手紙を紹介し、1915年には木村荘八が単行本を出版しました。その後、小林秀雄や式場隆三郎などによっても紹介・翻訳されました。

1921年にはドイツ語版のベルナール宛書簡集が出版され、1924年にはヨー編纂のオランダ語版書簡集が出版されました。1927年には初めて本格的な英語版書簡集が刊行され、1938年には美術史家ダグラス・クーパー編集のベルナール宛書簡集の英訳版が出版されました。また、テオ、ベルナール、ラッパルト以外の人物宛の手紙も散発的に公表されていきました。

1932年にはフィンセント・ウィレムが、父テオからフィンセントに送られた手紙を刊行し、1936年にはゴッホのラッパルト宛書簡が英語で翻訳出版されました。

旧完全版（1952年-54年）

第二次世界大戦後、フィンセント・ウィレムは、ゴッホ生誕100年を機に、それまで公表された全ての手紙をまとめた書簡集『Verzamelde brieven』を1952年から1954年にかけて出版しました。この書簡集では、テオ、ベルナール、ラッパルトなどあらゆる人との手紙が網羅され、ゴッホが書いたオリジナルの言語で印刷されています。未発表だった手紙も収録されました。しかし、書簡番号が振られた資料の中に、第三者の文章も含まれるなど、整理が十分にされていない部分もありました。

1955年には早くも再刊され、1973-74年にも再版されました。また、イギリスでは1958年に英訳出版され、その後イタリア語版、フランス語版、ドイツ語版が出版されました。日本語訳は、この版に基づき、みすず書房から『ファン・ゴッホ書簡全集』が刊行され、岩波文庫から『ゴッホの手紙』が刊行されました。

旧完全版以後

旧完全版刊行後も、未発見の手紙がいくつか追加発表されました。1977年には、ゴッホ晩年の手紙を複製印刷したファクシミリ版が出版されました。ダグラス・クーパーは1983年に、ゴーギャンからゴッホ、テオ、ヨーに宛てた手紙を出版しました。

1990年には、ゴッホ美術館がゴッホ没後100年を記念して、これまで発表された全ての手紙をまとめた書簡集『De brieven』を発表しました。この版では、手紙が時系列順に配列され、スペリングが現代オランダ語に直されました。

ゴッホ美術館改訂版（2009年）

ゴッホ美術館は、1994年から最新の研究成果を盛り込んだ新たな完全版書簡集をウェブ上で公開する計画に着手し、2009年にウェブ版と書籍版が同時に発表されました。この改訂版では、日付の特定、誤りの訂正、詳細な注釈などが加えられました。日本語訳は新潮社から『ファン・ゴッホの手紙 Ⅰ・Ⅱ』として刊行されました。

手紙の意義

ゴッホの手紙は、美術史研究において、絵画作品の制作時期を特定する上で、重要な資料となっています。また、制作の経緯、背景を知る上でも重要な意義を有します。手紙はゴッホの芸術観や内面を深く理解するための鍵であり、文学的な観点からも高く評価されています。ゴッホの生涯、芸術自体への関心を高める上で、手紙が果たした役割は非常に大きいと言えるでしょう。

ギャラリー

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脚注

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参考文献

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外部リンク

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