ヘルクレス座イオタ星

ヘルクレス座ι星

ヘルクレス座ι星は、夜空で比較的明るく輝く恒星の一つで、地球からはおよそ455光年の彼方に位置しています。単一の星ではなく、少なくとも2つの恒星が重力によって結びついた連星系を含む、多重星として知られています。特にその主星は、明るさを周期的に変化させる脈動変光星という特徴を持っています。

見え方とその位置

ヘルクレス座ι星は、見かけの等級が3.8等と、晴れた夜であれば特別な機材を使わずに肉眼で容易に見つけることができる明るさです。ヘルクレス座の領域に属していますが、星座の形を形作る主な星からは少し外れた位置にあり、むしろ隣接するりゅう座の頭部に近い空に見られます。

歴史的な意義：北極星として

地球の自転軸は、歳差運動と呼ばれる周期的な揺れによって、天球上をゆっくりと移動します。この動きに伴い、天の北極の指し示す方向も変化するため、時代によって「北極星」となる星が変わります。ヘルクレス座ι星は、この天の北極が描く軌跡の近くに位置しているため、過去のある時代には北極星としての役割を担っていました。計算によると、おおよそ紀元前1万1千年頃には、ヘルクレス座ι星が当時の北極星であったと考えられています。ただし、現在の北極星であるポラリスが天の北極から1度未満しか離れていないのに対し、当時のヘルクレス座ι星は天の北極から4.5度ほど離れており、現在のポラリスほどの高い精度で真北を示していたわけではありません。

複雑な星系構造

ヘルクレス座ι星は、少なくとも3つの構成星を含む多重星系であることが観測から示唆されています。ワシントン重星カタログには、主星である明るいA星と、それに伴うB星、そしてA星のさらに伴星とされるAb星が記録されています。B星はシャーバーン・バーナムによって発見された12等星で、A星から北東方向におよそ116秒角離れた位置にあります。発見以来、A星との相対位置がほとんど変化していないことから、B星はA星と同じ固有運動を共有しており、真の連星系を形成している可能性が指摘されています。

主星であるA星自体も、その複雑な性質が明らかになっています。1970年代のスペックル干渉法による観測では、A星が南北方向にわずか167ミリ秒角離れたAa星とAb星に分解されたと報告されました。しかし、このAb星の検出は一度きりであり、その実在については議論の余地が残されています。

一方で、A星が分光連星であることは、視線速度の周期的な変動から確認されています。この連星系の公転周期は約113日で、比較的細長い離心率0.55の楕円軌道を描いていると考えられています。質量関数を用いた推定によると、この伴星（まだ直接観測されていない）の質量は太陽の4割以下と小さく、白色矮星か、あるいは低質量の赤色矮星である可能性が推測されています。

主星の物理的特徴

ヘルクレス座ι星の主星は、スペクトル型がB3 IVに分類されるB型準巨星です。これは、中心部での水素核融合反応が終わりに近づいているか、あるいはすでに終了した進化段階にあることを示しています。質量は太陽の約6.7倍、半径は太陽の約5.4倍と、太陽に比べてかなり大きく高温な星です。表面温度はおよそ17,500ケルビンに達し、その放出する光のエネルギーは太陽の約2500倍にもなります。

この星の特徴として、B型星としては珍しく自転速度が比較的遅いことが挙げられます。推定される自転速度は秒速6キロメートル以上と、一般的なB型星よりも緩やかです。そのため、スペクトル中に現れる吸収線がシャープであり、視線速度の精密な測定や含まれる元素の詳しい分析に適しています。このような性質から、分光観測における標準星としても頻繁に利用されています。

変光のメカニズム

ヘルクレス座ι星の主星は、視線速度の変動が連星の公転だけでは説明できないこと、および吸収線輪郭が短い周期で変化することが1970年代以降に報告され、変光星であることが明らかになりました。測光観測でも、これに対応するような短い周期での明るさの変化が確認され、特に紫外域で約3時間周期、振幅0.01等の微小な変光が観測されています。この変光は、当初おおいぬ座β星に類似しているとして、変光星総合カタログではケフェウス座β型変光星に分類されました。

しかし、その後のより詳細な周期解析によって、約3.5日という比較的長い脈動周期が明確に検出されました。この周期はケフェウス座β型星の典型的な周期よりもはるかに長く、ヘルクレス座ι星が、ペルセウス座53番星などを代表とする、ゆっくり脈動するB型星（SPB星）の性質も持っていることを示唆しています。一方で、ケフェウス座β型に相当する短い周期も一部の観測データで検出されることがありますが、常に安定して見られるわけではありません。このため、ヘルクレス座ι星はSPB型とケフェウス座β型の両方の特徴を併せ持つ混合型変光星であり、特にケフェウス座β型に相当する脈動は、ある時期にのみ現れる突発的な現象である可能性も、仮説として提唱されています。

名称

中国の伝統的な天文学においては、ヘルクレス座ι星は『天上の唐棹（からざお）』を象徴する『天棓（てんぼう、Tiān Bàng）』と呼ばれる星官（アステリズム）の一部とされています。この天棓は、ヘルクレス座ι星のほか、りゅう座のξ星、ν星、β星、γ星といった周辺の星々によって構成されており、ヘルクレス座ι星自身は『天棓五』（てんぼうご、Tiān Bàng wu）、すなわち天棓の5番目の星と呼ばれています。

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