ベンジャミン・キッド

ベンジャミン・キッド（Benjamin Kidd、1858年 - 1916年）は、ヴィクトリア朝後期のイギリスを代表する社会学者の一人です。本業は公務員でありながら、独学で社会思想を深く探求し、1894年に発表した著作『社会の進化（Social Evolution）』によって瞬く間に国際的な名声を得ました。彼は、社会や現代文明の進歩は、理性や科学ではなく、むしろ宗教的信念という「超合理的」な力によって推進されると主張し、当時のダーウィン的な進化論や社会進化論の議論に一石を投じました。この革新的な見解は世界中に広まり、特にアメリカの社会的福音運動にも影響を与えたとされています。しかし、第一次世界大戦を経て世界が大きく変化するとともに、彼の著作に対する関心は薄れ、主に歴史的な文脈でのみ顧みられるようになりました。

生い立ちと初期キャリア

キッドは1858年 9月9日、アイルランドのクレア県で、王立アイルランド警察隊の巡査の息子として生まれました。11人兄弟の長子として、幼少期に特別な教育や社会的地位の恩恵を受けることはありませんでした。しかし、強い意志と向上心を持つ彼は、「ボロから富へ」という言葉が象徴するように、自身の努力で道を切り開いていきます。

1878年、18歳でロンドンの内国歳入委員会事務員として働き始めます。この職に就くためには下級公務員試験に合格する必要がありました。ロンドンでの生活は質素で孤独なものでしたが、大志を抱く彼は夜間学校に通い、貪欲に読書に勤しみました。当時の下級公務員の給与は非常に低く、13年間昇給がないまま生活を維持するのがやっとという状況でした。この質素さは、彼の生活の必然でした。

1887年に結婚し、3人の息子をもうけましたが、無名の事務員であることに満足していませんでした。彼は自学で社会的な思想家となり、オーギュスト・コントやハーバート・スペンサーのような影響力を持つことを人生の使命だと確信していました。事務員としての17年間、彼はこの使命達成のために準備を進め、特に後半の10年間は『社会の進化』の執筆に集中しました。

『社会の進化』の成功とその主張

1893年に完成し、1894年に出版された『社会の進化』は、その印税収入によってキッドが公務員の職を辞することを可能にしました。彼は長年の努力の末、無名の事務員から国際的に有名な社会的思想家へと変貌を遂げたのです。

『社会の進化』の中心的な主張は、宗教、とりわけキリスト教信仰こそが、社会における慈善活動や政治的権利の拡大を促進する主要な推進力であるという点にありました。彼は、理性は利己的で近視眼的なものだとみなし、これと対照的に宗教によって生み出される「利他主義」こそが、社会の進歩、特に生活条件の平等化をもたらすと論じました。

この本は、進化論と自然主義が宗教的信念を揺るがしていた当時の時代背景において、絶妙なタイミングで出版されました。キッドは最新の学術的知見を織り交ぜながら、宗教の不可欠性を説いたため、多くの読者を惹きつけました。彼は社会進化論の流れを汲みつつも、ハーバート・スペンサーらが個人の合理的知性を重視したのに対し、宗教によって統合された社会集団単位での競争や淘汰、そして社会統合における宗教の役割を強調しました。

『社会の進化』は大きな成功を収め、ドイツ語、フランス語、ロシア語、イタリア語、中国語、日本語を含む多数の言語に翻訳されました。日本でも、角田柳作訳（1899年）や佐野学訳（1925年）が出版され、当時の知識人に読まれました。成功の一因は、社会主義への鋭い批判が保守層に響いたこと、宗教が進化の原動力だという主張が宗教関係者に受け入れられたこと、そして労働者が平等な機会を得るという楽観的な未来像が当時の労働者層に希望を与えたことにありました。

名声と国内外での活動

『社会の進化』の成功により、キッドはフルタイムの社会思想家として、国内外を自由に旅するようになりました。1894年から1902年にかけてアメリカ各地を訪問し、カナダや南アフリカにも足を伸ばしています。ロンドンでは、政界、科学界、文学界の重鎮たちと交流を深めました。アメリカ滞在中には、『アウトルック』誌のインタビューに応じ、アメリカとイギリスが平等な政治的・社会的機会に向かっているという楽観的な見通しを示しました。また、『タイムズ』紙に寄稿した記事は後に『The Control of the Tropics』として出版されています。彼はアメリカで社会的福音運動の指導者たちとも会見しました。

国際的な有名人となったキッドには、多数のインタビューや執筆、講演依頼が舞い込みましたが、その名声に戸惑いを感じるようになり、多くを断り、内向的な性格に戻っていきました。

『社会の進化』への評価と反応

『社会の進化』は、その内容の曖昧さから、評価が大きく分かれました。社会主義を厳しく批判する一方、生活条件の平等化を擁護したため、「キリスト教社会主義者」と呼ばれることもあれば、資本家寄りだと評されることもありました。このため、この本は熱烈な支持と激しい攻撃の両方を受けました。

支持者の中には、慈善家チャールス・ブースや経済学者アルフレッド・マーシャル、アメリカ社会学の創始者とされるレスター・フランク・ウォードといった著名人がいました。彼らはこの本の独自性や力、そして健全な論調を評価しました。

一方で、激しい批判も浴びました。信仰者からは宗教を機能面からのみ擁護していると、科学者からは非理性や杜撰な憶測に基づく主張だと、学者からは歪んだ理性概念や歴史の説明が不正確だと批判されました。セオドア・ルーズベルト大統領は、議論が杜撰で、根本的に間違っていると指摘しました。1927年版の『英国人名事典』は、彼の著作を「支離滅裂で」「思わせぶりなレトリックに満ちた」「扇情的な報道」のようだと評し、学界は彼の著作を真剣に扱わなかったと述べています。

日本でも、内村鑑三はこの本に感銘を受けたとされる一方、夏目漱石は辛辣な批判的な書き込みを残しています。

その他の著作と晩年

1902年に出版された『西洋文明の諸原理（Principles of Western Civilization）』は、『社会の進化』ほどの成功は収められず、多くの否定的な評価を受けました。「愚かさ」「ナンセンス」「形而上学的な欺き」といった厳しい言葉が書評に並び、歴史の歪曲や議論の不明確さが指摘されました。

1903年以降、キッドはロンドンを離れて隠遁に近い生活を送りましたが、執筆や講演は続けました。1908年にはオックスフォード大学で講演を行い、1911年には『ブリタニカ百科事典』の社会学の項目を執筆しました。晩年の6年間は、主著『力の科学（The Science of Power）』の執筆に取り組みましたが、第一次世界大戦の勃発により世界の状況が変化したため、改訂が必要となり、彼の死後の1918年に息子によって出版されました。

『力の科学』では、初期の楽観的な見通しは影を潜め、ダーウィニズムや帝国主義、そしてかつて賞賛した西洋文明への厳しい批判が展開されました。彼は、キリスト教的利他主義こそが国家間の恒久的な善意を生み出す理想であり、戦争に代わる仲裁の重要性を説きました。特に、第一次世界大戦直前の状況を「異教的大退化」とみなし、敵を愛するというキリスト教の教えを否定する動きを憂慮しました。

未来への希望として、キッドは女性の影響力に注目しました。彼は女性を「反＝異教的（非利己的）」で「人種の利益に献身する」存在、すなわちキリスト教的利他主義を体現する存在とみなし、社会統合における女性の役割を高く評価しました。この見解はフェミニストたちの関心を引きました。

ベンジャミン・キッドは、短期間の闘病の後、心臓病のため1916年 10月2日に死去しました。

歴史的評価

キッドの思想は、カール・マルクスやハーバート・スペンサーに影響を受けつつも、彼らを批判するという両面性を持っていました。彼はマルクス主義者と同様に支配階級が本質的に優れているわけではないと同意しましたが、支配階級は退化するため、新たな支配者が下層から現れるべきだと信じていました。人種論に関しては、白人種の知的優位を認めましたが、それは生得的なものではなく蓄積された知識によるものだと考えました。また、特にイングランド人種は、利己的な衝動を抑え、共同体や未来の利益のために組織化する能力に優れている点で優位であるという、一種の人種主義的な見解も示しました。

後世の歴史家、特に社会進化論の研究者からは、キッドは「ポップな社会学」で一時的に大きな注目を集めたものの、その思想は後の世代にとって理解しにくく、当惑させるものとなったと評されることがあります。学術界からは常に距離を置かれていたという指摘もあります。

ベンジャミン・キッドは、当時の社会進化論の議論において、宗教という要素を強く打ち出した独自の思想家でした。その著作は一時絶大な影響力を持ちましたが、時代の変化とともに忘れられ、現在は主に社会思想史の文脈で言及される存在となっています。

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