ホテル・ルックス

ホテル・ルックス：世界革命の中心地と、その影

モスクワのトヴェルスカヤ通り（旧ゴーリキー通り）に存在した「ホテル・ルックス」は、ソ連初期、コミンテルンの外国人宿舎として知られた歴史的建造物です。革命前には高級ホテルとして営業していましたが、十月革命後、ボリシェヴィキによって接収され、コミンテルンの活動拠点となりました。

多くの共産主義運動の指導者や革命家が、このホテルに滞在しました。東ドイツ初代大統領のヴィルヘルム・ピーク、東ドイツ国家評議会議長のヴァルター・ウルブリヒト、ユーゴスラビア大統領のチトー、ハンガリー首相のラーコシ・マーチャーシュ、ベトナム国家主席のホー・チ・ミン、中国首相の周恩来など、錚々たる顔ぶれが名を連ねています。

日本からは、日本共産党代表の片山潜が長期滞在者として有名でした。彼はコミンテルンにおいて最も知られた人物の一人であり、ホテル・ルックスで長年を過ごしました。また、ゾルゲ事件で知られるリヒャルト・ゾルゲとアイノ・クーシネンもコミンテルン職員として滞在しており、後に日本で再会する因縁も持っています。

ホテル・ルックスは、世界中から革命家が集まる場所として、「世界革命本部」とも呼ばれていました。1921年の第3回コミンテルン世界大会では、50か国以上から約600名の代表が宿泊し、その賑わいは想像を絶するものだったでしょう。

1933年には、ヒトラー政権下のドイツからの亡命者増加に対応するため、増築が行われ、部屋数は約300となりました。この増築は、ナチスによる共産主義者弾圧の影を反映していると言えるでしょう。

ホテルの設備は、当時の状況を反映したものでした。各階に複数設置された簡素な共同キッチン、数が少なく男女共用のトイレ、時間交代制の共同浴場など、600人を超える住人を収容するには、決して十分とは言えないものでした。しかし、裏側には診療所や保育園も備えられており、住人の生活を支えるための工夫も見られました。

興味深いのは、ホテルの内部に貼られていた壁新聞の存在です。断水などの出来事について詳細な情報が掲載され、住人同士の情報共有に役立っていたようです。また、建物内に設置されたスピーカーからは、モスクワ放送による音楽や演説が流れており、常に情報に晒されていた生活が伺えます。

ホテル・ルックスの全史を通じて、住人たちを悩ませ続けたのはネズミでした。警備員が毎晩棍棒でネズミ退治に当たっていたにもかかわらず、その数は減ることはありませんでした。

ホテルへの出入管理も厳格でした。「プロプスク」と呼ばれる通行証の提示が義務付けられており、コミンテルン関係者は赤い表紙、その他は灰色の表紙のプロプスクを使用していました。裏口からの出入りも可能でしたが、常に監視されていたわけではなかったようです。

1936年から始まる大粛清は、ホテル・ルックスをも襲いました。NKVD（内務人民委員部）による逮捕劇が繰り広げられ、多くの住人が取り調べを受けました。特にドイツ人住人への取り締まりは徹底しており、「ゲシュタポの取りこぼしをNKVDが捕まえた」と言われるほどでした。

逮捕には理由がなくても構いませんでした。ある夜、NKVDの係官が住人の部屋を訪問し、偶数部屋番号の住人だけが逮捕されるという不可解な出来事もありました。このエピソードは、粛清の非合理性と恐怖を象徴的に示しています。

1940年のトロツキー暗殺後、粛清は一旦収まりましたが、ホテル・ルックスはその後も、さまざまな政治的変遷を経験し続けました。1954年、農業博覧会の開催を機に、最後の政治的滞在者が去り、ホテルは普通のホテルとして「ホテル・ツェントラール」と改名されました。

多くの元住人たちは、ホテル・ルックスでの体験を報告書や回想録などに記しています。それらの記録は、ホテルの歴史と、その時代に生きた人々の姿を伝える貴重な資料となっています。1978年には、ルート・フォン・マイエンブルクがホテル・ルックスの歴史を記した最初の著書を出版し、その後の研究にも貢献しました。2011年には、ホテル・ルックスを題材としたドイツ映画も制作され、その歴史は現代にも伝えられています。

ホテル・ルックスは、もはや存在しませんが、その歴史は、世界革命の中心地としての華やかな時代と、大粛清という暗い影の両方を併せ持つ、複雑で魅力的な物語として、私たちの記憶に刻まれています。多くの歴史的著名人が宿泊したこのホテルの物語は、20世紀の歴史を理解する上で貴重な手がかりを与えてくれます。

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