マーシア王国

イングランド中部に位置したマーシア王国（Kingdom of Mercia）は、中世初期の混迷期、七王国と称されるアングル人・サクソン人諸王国の一つとして歴史に名を刻みました。7世紀半ばから9世紀初頭にかけて強力な勢力を誇り、特に8世紀にはイングランドの覇者たる「ブレトワルダ」（上王、大王を意味する古英語）を二人も輩出しました。その名の由来は、古英語で「辺境の人々」を意味する“Mierce”がラテン語化された後世の呼び方とされています。

時代背景と社会

古代ローマ帝国の力がブリテン島から去った後、この地はブリトン人、ピクト人、スコット人といった先住民と、海を渡ってきたアングロサクソン人との激しい勢力争いの舞台となりました。ブリトン人は当初、異民族であるアングロサクソン人の戦士団を傭兵として招き入れましたが、彼らはやがてブリテン島の定住に適した環境に気づき、独自の王国を築いてブリトン人と対立するようになります。アングロサクソン人の移住は二段階で行われたと考えられています。まず戦士団が流入し、続いて大量の農民が渡来・定住したことで、彼らはブリテン島に確固たる根を張る勢力となりました。

アングロサクソン時代のイングランドは「七王国時代」とも呼ばれますが、実際には百を超える多数の小王国が興亡を繰り返していました。七王国という枠組みは、後世の歴史書、特に『アングロサクソン年代記』によって整理されたものであり、そこに挙げられた王国とそれ以外の間に明確な実力の差があったわけではありません。これらの王国は絶えず争い、敗れた王国は滅亡するのではなく、勝利した王国に臣従することで一種の階層構造を形成しました。この支配関係は「上位支配権（Overlordship）」と呼ばれます。しかし、王位継承の制度が不安定だったため、王の死によって王国の力が容易に瓦解することも珍しくありませんでした。上位支配権によって広大な版図を築いたブレトワルダも、臣従する小王国が隙あらば独立を窺う状況に常に直面しており、さらに王位を巡る内紛も頻発したため、イングランド全土の統一に向けた動きはなかなか見られませんでした。

アングロサクソン社会は3ないし4の身分階級を持つ階層社会でした。臣従した小王国の王族出身者であるエアルドルマンが支配階級を形成し、その従士であるイェシースやセインが土地所有者でした。土地の耕作は一般農民であるチェオルルが行い、さらに奴隷も存在しました。奴隷は敗戦国の民や債務者などからなり、有力な交易品でもありました。支配階級や土地所有者の他に、交易商人や聖職者も特権階級を形成しており、「祈る者、戦う者、働く者」という三つの階級で社会が説明される記録も残っています。

地理と宗教

マーシア王国の地理的な位置は、北の強敵ノーサンブリア、南のウェセックス、西のウェールズのケルト諸国といった手ごわい隣国に囲まれていました。マーシア自体の直接的な版図は広大ではなく、その力の源泉は上位支配権による臣従国に大きく依存していました。そのため、マーシア本体が弱体化すると、臣従国はすぐに他の強国へと allegiance を変えることもあり、小王国の奪い合いや強国間の上位支配権争いが常態化していました。多くの王国を臣従させた王は後にブレトワルダと呼ばれ、マーシアは二人を輩出することになります。

七王国時代は、キリスト教がイングランドに再び根付いた時代でもあります。ローマ帝国衰退後、ブリテン諸島はいったんキリスト教圏の外に置かれ、流入したアングロサクソン諸部族は当初ゲルマン神話を信仰していました。彼らにとってイングランドは蛮族の地と見なされていました。例えば、地名や英語の曜日名にはゲルマン神話の神々の名残が見られます。諸王国は徐々にキリスト教に改宗していきましたが、マーシア王国は比較的遅くまでゲルマン信仰を保っていました。

盛衰の歩み

マーシアは、ユトランド半島から渡来したアングル人のうち、最も西に進出しブリトン人地域に近かった一派に由来するとされます。その出自には不明な点が多く、文字記録の少なさや当時の文化的な状況が影響していると考えられています。しかし、考古学的調査などから6世紀にはテムズ川北岸に勢力を持っていたと推測されています。初期の変遷についても史料が少なく信頼性も低いため定説はありません。「国境の人々」という名の由来から、ブリトン人とアングロサクソン人の緩衝地帯であったという説や、隣国ノーサンブリアやトレント川沿いの住民との境界を指すという説もあります。

伝説によれば、『ベーオウルフ』に登場するオルゲンシーオや、5世紀末に渡来したとされるイチェルに起源を遡ることができます。『アングロサクソン年代記』では、最初の王はイチェルの曾孫クレオダ（540頃? - 593）とされ、彼がタムワースに王城を築いたとされます。しかし、これらの初期の王は半伝説的であり、実在が確実視されているのは次の王チェオルル（606頃 - 626）以降です。

7世紀初頭はノーサンブリア王国が北方勢力やウェールズのブリトン人を圧迫して勢力を広げ、ブレトワルダの地位を得ていました。この時代の歴史家ベーダはノーサンブリア出身であり、マーシアに関する記述は公平性に欠ける面がありますが、それでもマーシアが無視できない力を持っていたことを示しています。ペンダ王（? - 655?）の頃には、イングランド中部の覇権を巡ってノーサンブリアと激しく争い、ハットフィールド・チェース（633年）やマスターフィールド（642年）の戦いに勝利してマーシアを強国に押し上げました。しかし、ブレトワルダの地位を目前にしながら、655年のウィンウェッドの戦いで決定的敗北を喫し、ペンダ王は戦死、マーシアはノーサンブリアの傘下に入ることになります。

その後、マーシア王国を立て直したのがウルフヘレ王（? - 675）です。彼はノーサンブリアの支配から脱却し、ケントやワイト島など南部の地域をその支配下に置きました。また、この時期にキリスト教への改宗を果たしました。キリスト教世界の仲間入りは、当時の国際関係において重要な意味を持っていました。ウルフヘレのもとで勢力を広げたマーシアでしたが、この時点での支配領域はイングランド南半分にとどまり、西で台頭するウェセックス王国との関係も難しく、イングランド全土にその支配を広げるのは8世紀後半を待つことになります。

ブレトワルダの時代と最盛期

8世紀後半、マーシアは二人の偉大なブレトワルダを輩出しました。一人はエゼルバルド（在位：716 - 757）、そしてもう一人はオッファ（在位：757 - 796）です。エゼルバルドは教会への課税を強化して国力を蓄え、西の強敵ウェセックス王国を屈服させるなど積極的な政策を採りました。しかし、こうした政策は内外に多くの敵を生み、最終的にエゼルバルドは自身の護衛兵によって暗殺されました。

エゼルバルドの後を継いだオッファの時代は、マーシア王国にとってまさに絶頂期でした。彼は長年の宿敵ノーサンブリア王国を屈服させ、その上位支配権を確立しました。さらに、これまで臣従させていた小王国を解体し、自らの親族や信頼できる腹心を統治者として送り込むことで、国内の統治を強化しました。オッファの偉大な業績として知られるのが、「オッファの防塁」です。これはハドリアヌスの長城にも匹敵する規模を持ち、イングランドとウェールズの間に築かれました。その建設意図は、西のブリトン人からの侵攻を防ぐためとも、獲得した領土を明確に示すためともいわれますが、詳細は不明です。彼は対外的にもフランク王国のカール大帝と対等な外交を展開するなど、その力を示しました。このようにイングランド南部から中部、そして北部の一部までを支配下に置いたオッファは、自ら「レクス・アングロルム」（全アングル人の王）と称しました。

衰退と終焉

オッファは死に際して後継者を息子エグフリスに定め、臣下の忠誠を取り付けましたが、そのエグフリスがオッファの死後わずか141日で亡くなってしまいます。これによりマーシア王国は混乱に陥り、ウェセックスを含むいくつかの王国が独立を回復しました。混乱を収拾したコエンウルフ王（チェンウルフ、在位：796-821）は、独立した諸国を直ちに平定しましたが、西方のウェセックス王国はマーシアに勝利して独立を確固たるものとし、さらに教会への課税を強制するほどの力をマーシアは失っていました。この頃、ヴァイキングがブリテン島東海岸に出没し始め、沿岸部の港が襲われるようになります。

マーシア王国は急速に没落したわけではありませんが、ヴァイキングの被害が比較的少なかった南西のウェセックス王国が力をつけ、9世紀に入るとその勢力に対抗できなくなっていきました。何度か独立を回復したこともありましたが、基本的にはウェセックスの上位支配権の下に置かれる形となりました。そして825年、エランダンの戦いでマーシアはウェセックス王エグバートに決定的に敗北します。この敗北は、その後のイングランド統一をウェセックスが主導する端緒となりました。

マーシア王位はしばらく続きますが、868年にデーン人のブルグレッドが即位したのが最後のマーシア王となります。ブルグレッドは874年に追放され、マーシア王国はデーン人とウェセックス王アルフレッド大王によって分割されました。これにより、マーシア王国は歴史の表舞台から姿を消しました。

残した影響

マーシア王国は、他のアングロサクソン諸王国に比べ、比較的ローマやキリスト教の影響が遅くまで及ばず、アングロサクソン本来の社会や文化を色濃く残していました。北方の大国ノーサンブリアが早期にキリスト教を受け入れ華やかな文化を築いたのと対照的に、「野蛮な」勢力と見なされることもありました。しかし、ロンドンを勢力下に収めてからは商業を奨励し、王の肖像と名を刻んだ貨幣を大量に鋳造するなど、経済的な発展も見られました。

マーシアとその覇権は、当時のイングランド社会に変化をもたらしました。七王国時代のブリテン島には無数の小王国が乱立し、王は戦士団の首長として、常に勝利して威光を保たなければなりませんでした。敗北は死を意味し、安定した王位継承は困難でした。しかし、マーシア王国が編纂した徴税のための土地台帳「トライバル・ハイデジ」に見られるように、単なる戦士集団の連合体から、徴税や行政といった統治機構を備えた国家へと変貌を遂げようとしていました。

また、オッファが「全アングル人の王」と名乗ったことや、この時期に始まったヴァイキングの襲来は、アングロサクソン人という集団としての仲間意識を芽生えさせるきっかけとなったという指摘もあります。多数の小王国が争う状態から、やがて一つのイングランドというまとまりに向かう歴史の流れの中で、マーシア王国は重要な役割を果たしたのです。

もう一度検索