メナム河事件

メナム河事件は、17世紀前半、現在のタイである暹羅（シャム）の主要河川、チャオプラヤー川（当時はメナム河と呼ばれた）の河口で発生した国際的な事件です。江戸幕府から海外渡航許可証である朱印状を得て交易を行っていた日本の朱印船が、スペインの艦隊によって襲撃され、船を奪われ、乗組員が連行されるという事態に至りました。この事件は、襲撃を指揮したスペイン提督の名からアルカラソ事件とも呼ばれます。

事件発生の背景

この事件は、当時の東南アジアにおける欧州各国間の激しい勢力争いと、日本との貿易を巡る複雑な状況の中で起こりました。1622年には、オランダとイギリスの連合艦隊がポルトガルの拠点マカオを襲撃する戦いが発生（マカオの戦い）するなど、緊張が高まっていました。マカオ側はマニラのスペイン当局に援軍を求めますが、後に援軍の必要はなくなります。しかし、スペインのフェルナンド・デ・シルバ提督率いる船団はシャムのメナム河に立ち寄ります。ここで1624年、シャムに滞在していた日本人とオランダ人の間で争いが起き、これに介入したシルバの船団がシャム国王の近衛隊に襲われ、一部の船員が捕えられたり殺害されたりする事件が発生しており、これが後の報復行動の遠因となります。

事件の経緯

メナム河事件の直接的な契機となったのは、1627年にオランダ艦隊が再びマカオを封鎖したことでした。ポルトガルからの救援要請を受けたマニラのフィリピン総督は、ドン・ファン・デ・アルカラーソ提督に艦隊を率いてマカオへ向かうよう命じますが、到着した時にはオランダ艦隊は既に撤退していました。

そこでアルカラーソは翌1628年5月、先の1624年の事件でシャムによって拿捕されたポルトガル船と貨物の損害に対する「報復」を名目に、艦隊をシャムへと向けました。シャム沿岸で複数の船を略奪したアルカラーソ艦隊は、チャオプラヤー川の河口に停泊していた日本の朱印船を発見し、これも襲撃しました。この船は長崎の町年寄である高木作右衛門が派遣した交易船でした。船は力ずくで奪われ、乗組員57名は捕えられ、遠くマニラへと連行されました。この際、船が所持していた将軍発行の朱印状も奪われてしまいました。

日本にこの事件が伝わると、平戸のオランダ商館長は、スペインとポルトガルが当時同君連合（イベリア連合）にあったことを強調し、幕府に対しポルトガルに責任を問うよう働きかけました。幕府はこれを受け入れ、当時長崎に来航していたポルトガル船数隻を抑留し、ポルトガルとの取引を一時停止しました。ポルトガル側はスペインの行動に責任はないと抗弁しましたが、幕府は聞き入れませんでした。

その後、マニラのスペイン総督は拘束した日本人乗組員を日本へ送還する方針を示し、中国人船長のジャンク船に乗せて出発させました。しかし、この船は日本に到着しませんでした。後日、オランダ経由で伝わった情報によると、このジャンク船はスペイン船によって沈められ、日本側に事件が知られないよう乗員全員が海に沈められたとされています。抑留されていたポルトガル船は1630年に解放されますが、日本の商人たちは損害の補償を求め続け、1631年にはポルトガル船の積荷を差し押さえるなど、問題は長期化しました。

事件の影響

メナム河事件は、江戸幕府の対外政策、特に海外渡航と貿易に対する姿勢に大きな影響を与えました。最も重要な影響は、将軍の権威を示す朱印状が海外で奪われ、粗雑に扱われたという事実を幕府が重く見たことです。これにより、幕府は朱印状の海外での紛失や悪用を防ぐための新たな制度導入を急ぎました。

その結果、1631年には奉書船制度が設けられます。これは、従来の朱印状だけでは海外渡航できず、老中が長崎奉行宛てに発行する「奉書」を携帯することが必須となる制度でした。奉書は長崎奉行に朱印状を預けることで交付され、渡航先では奉書を提示することで交易が許可されました。これにより、海外で朱印状自体が強奪されるリスクを減らそうとしました。この事件は、朱印状の発給自体を抑制する方向へと幕府を動かした一因とも言われています。

また、この時期には、長崎奉行の竹中重義が幕府の統制に反する行動を多数行っていたことが問題視されます。彼は、海外渡航が制限されつつある中で貿易家に出港許可を与えたり、島原藩主松倉重政と共にマニラへの密航船を派遣し、密かに交易を行ったり、戦略物資や宣教師を輸送したりしていたとされます。これらの行為はマニラ征服のための偵察とも噂されましたが、実際は不正な私益を目的としたものであったと考えられています。竹中はこれらの職権乱用と不正貿易が発覚し、1633年に長崎奉行を罷免されました。これを機に、長崎奉行は不正の相互監視を目的とした2人制となりました。

事件の被害者である高木作右衛門は、この後貿易から身を引いたとされますが、幕府からの直接的な補償は行われなかったようです。

メナム河事件は、直接的に「鎖国」が始まった出来事ではありませんが、朱印状の権威失墜という事態が幕府に海外交易への警戒心を強めさせ、より厳しい統制へと向かう転換点の一つとなり、後の鎖国体制の確立に繋がる流れの中で重要な位置を占める事件と言えます。

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