光源氏物語本事

『光源氏物語本事』：平安・鎌倉期の『源氏物語』研究の礎

『光源氏物語本事』は、『源氏物語』に関する注釈書、より正確には注釈書『幻中類林』からの抜粋です。鎌倉時代の文永年間（1264～1274年）頃に、「華洛非人桑門了悟」という人物によって編纂されたと推測されています。島原松平文庫に所蔵されていた写本が発見され、今井源衛氏による紹介を通じて広く知られるようになりました。全7丁という短いながらも、『源氏物語』の写本に関する情報、外伝的な巻名、更級日記に関する記述など、他に類を見ない貴重な内容が網羅されています。その特異性から、『源氏物語』の研究において不可欠な第一級資料と評価されています。平安・鎌倉期の『源氏物語』研究、享受史を語る上で、本書抜きには議論を進めることは不可能と言えるでしょう。

著者の謎：華洛非人桑門了悟

著者の「華洛非人桑門了悟」の素性は不明です。著名な人物の別名である可能性も示唆されていますが、現時点では特定できていません。本書の内容から、了悟は以下のような人物像が推測されます。

1250～1280年代に活動
京都在住で、鎌倉の河内方に冷淡
出家した公家
冷泉家と交流があったが、藤原定家とは距離があった
『続古今和歌集』の撰者とは交流があったが、選者ではなかった
高い地位にあった
熱心な『源氏物語』研究者
和漢の詩文に深い知識

福田秀一氏は、了悟を九条基家（1203～1280年）ではないかと推測しています。

庭：父からの家学

本書には、「庭云」という形で「庭」という人物の見解が繰り返し登場します。当初は固有名詞と考えられていましたが、現在は『論語』の季子篇にある故事に由来する、父から子への教訓を意味する言葉と解釈されています。「庭」は了悟の父親であり、了悟は家学を伝える立場から本書を著した可能性が示唆されています。了悟の父も『源氏物語』に造詣が深かったと考えられています。

内容：写本、巻名、更級日記の異文

『幻中類林』の総論部分から、写本に関する記述を抜粋したと見られています。

『源氏物語』の呼び名

本書の題名「光源氏物語本事」は、当時『源氏物語』を「光源氏物語」と呼ぶのが一般的だったことを示唆する根拠の一つとされています。

『源氏物語』の写本

本書は、現在では知られていない、あるいは他の古注釈にも見られない写本について詳細な記述を含んでいます。本文の違いだけでなく、判型や装丁についても言及されています。具体的な写本としては、以下のものが挙げられます。

大炊御門齊院式子内親王御本
紫式部自筆本
宇治宝蔵におさめらるる本
比叡法花堂本
延久三宮御本
陰明門院御調度草子
鷹司院按察局福光殿
女院御本　宣揚門院より御相伝本
野宮左大臣殿御本
京極自筆の本（青表紙本）
頼隆宰相入道本
孝行が本（河内本）
比叡山中堂奉納の本
大斎院選子内親王へまいらせるる本
源氏抄
自余の古本

特に「京極自筆の本」に対する批判的な記述は注目に値します。「こと葉を抜きたる本」と評されており、青表紙本の簡潔な表現を批判したものと解釈されていますが、より大規模な文章の削除、例えば巻の削除を示唆しているという見解もあります。

散逸した巻名

本書は、54帖説と60帖説の両方を提示し、現在54帖本に含まれない巻名（桜人、巣守、嵯峨野上下、さしくしなど）についても言及しています。中には、他の資料には全く見られない独自の巻名も含まれており、特筆すべき点です。

『更級日記』の異文

本書は、『更級日記』に記された『源氏物語』に関する記述に、「ひかる源氏のものがたり五十四帖譜ぐして」という異文を記しています。これは、当時「五十四帖」という巻数が認識されていたことを示唆する重要な証拠です。

巻数と「譜」

『更級日記』の異文は、『源氏物語』を読む際に「譜」を用いたことを示唆しています。「譜」は『源氏物語』を読む助けとなる何らかの書き物と推測されますが、了悟は「譜」の内容について様々な人物に尋ねており、その答えが本書に記されています。「譜」は系図、巻名目録、注釈書など様々な可能性が指摘されています。また、衣笠家良からの証言として、『源氏物語』の写本には系図が付属していたという貴重な情報も得られています。

写本と影印本・翻刻本

現在、島原松平文庫本と高田図書館所蔵本の2つの写本が知られています。また、『幻中類林』は天理大学付属天理図書館に1冊が所蔵されています。影印本、翻刻本も存在し、研究の進展に貢献しています。

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