前奏曲 (フォーレ)

前奏曲集作品103

近代フランス音楽の巨匠、ガブリエル・フォーレ（1845-1924）による全9曲からなるピアノ作品集です。一般に『前奏曲集』、正式には『9つの前奏曲作品103』として知られています。これらの作品は、作曲家の創作期において、表現がより洗練され深みを増した晩年の「第三期」（1906年-1924年）に位置づけられます。

フォーレは生涯でいくつか「前奏曲」と題した作品を残しましたが、これら作品103は、まとまった曲集として構想された唯一の例です。初期の『前奏曲とフーガ』作品84や、管弦楽曲・劇付随音楽中の前奏曲（『ペレアスとメリザンド』など）とは区別されます。

創作の背景

この前奏曲集は、フォーレが1905年7月に音楽出版社アンリ・ウージェルと結んだ契約に基づき、精力的に創作を行った時期の成果です。彼はこの契約により、長らく遠ざかっていたピアノ曲の分野に再び意欲的に取り組み始めました。同時期には、即興曲第4番・第5番、舟歌第7番から第10番、夜想曲第9番から第11番など、多くの重要なピアノ作品が生み出されています。

特に1907年から1912年頃は、フォーレがオペラ『ペネロープ』の作曲に集中していた時期であり、この大作と並行して書かれたこれらのピアノ曲は、彼の円熟した技法と豊かな表現力が結実したものです。

9曲の前奏曲は、1909年末から翌1910年末にかけてという比較的短い期間に集中的に作曲されました。興味深いことに、これは同時代のフランスの作曲家クロード・ドビュッシーが、自身の最初の『前奏曲集』（第1巻）を手掛けていた時期と重なります。

フォーレは1909年12月の手紙で最初の3曲の完成を示唆し、これらは翌1910年1月にウージェル社に提出されました。1910年後半には義父の死など個人的な出来事がありましたが、彼は当初の構想を拡大し、第4番以降の6曲をさらに作曲しました。

聴覚の衰えと創作

この前奏曲集が書かれた時期は、フォーレの聴覚障害が進行していた頃と重なります。1902年頃から始まった不調は、1910年夏頃（第6番完成時期）には深刻化しており、彼は妻への手紙で音程の歪み（低音が3度高く、高音が3度低く聞こえる）を訴え、創作への影響を深く憂慮しています。このような困難な状況下で、これらの作品は生み出されました。

出版と初演

『9つの前奏曲』は最初、分割して出版されました。まず第1番から第3番が1910年にウージェル社から刊行され、同年5月17日には独立音楽協会の演奏会でマルグリット・ロンによって初演されました。その後、第4番から第9番が1911年に出版されています。全9曲を収めた1巻の楽譜が刊行されたのは、1923年になってからのことです。第4番以降の初演に関する詳細は不明です。この曲集はエリザベト・ド・ラルマン嬢に献呈されています。

作品の特徴と評価

フォーレの『前奏曲集』は、9曲それぞれが__きわめて多様な個性__を持っています。フランスの哲学者ウラジミール・ジャンケレヴィッチは「装飾をそぎ落とした風で瞑想的な9つの作品」と評し、フォーレ研究家ジャン＝ミシェル・ネクトゥーは、その多様性ゆえに__全曲をまとめて演奏することの意義__を強調しています。

ネクトゥーは、これらの前奏曲を様式によって以下の3タイプに分類しています。

夜想曲的な響きを持つ抒情的な作品（第1番、第3番、第7番）
高度な技巧を要する練習曲的な作品（第2番、第5番、第8番）
対位法的な手法を用いた作品（第4番、第6番、第9番）

日本の音楽評論家、美山良夫は、第2番と第8番が練習曲風である点に__構成上の対称性__を見出し、また第3番から第5番には舟歌作品との共通点があることを指摘しています。自筆譜の検討からは、第6番が当初第5番の位置に予定されていた可能性や、第5番の主題が第7番に現れるなど、曲間の関連性や全体の構成に対するフォーレの深い配慮がうかがえます。特に、軽快な第8番に続く静謐な第9番の配置は、同じくフォーレの『主題と変奏作品73』の終曲配置と類似しており、9曲全体を__一つのまとまった作品__として構想していたことが示唆されます。

作曲時期が重なるドビュッシーの『前奏曲集第1巻』との比較では、両者のアプローチの違いが際立ちます。ドビュッシーが示唆的な標題を付したのに対し、フォーレは音楽以外の要素を一切排除しています。簡潔さ、作品ごとの多様性、そして内面的な表現の深さといった点では、むしろ__ショパンの前奏曲__との共通性が指摘されます。

本作は、その内容の豊かさからショパンやドビュッシーの同ジャンル作品に比肩しうる、フォーレの__ピアノ曲の中でも傑出した作品__と高く評価されています。しかし、他の著名な作品（例: 『主題と変奏』）ほどの広く定着した人気は得ていないのが現状です。音楽学者の中には「24曲あったら成功しただろうか」と述べる者もいます。興味深いことに、初期の出版譜には「続く……」という記述があったとも言われ、フォーレがさらなる前奏曲の作曲を構想していた可能性も指摘されていますが、残念ながら実現しませんでした。

各曲の解説

第1番変ニ長調: 瞑想的な性格を持ち、幼少期の__鐘の音の記憶__が反映されていると言われます。静謐な雰囲気は夜想曲との関連が指摘されます。
第2番嬰ハ短調: 5/4拍子。技術的な要求の高い練習曲風の楽曲。ジャンケレヴィッチは__「蜂の飛翔」__と例えつつも思慮深さを指摘しています。
第3番ト短調: __舟歌__的な性格。近代的な和声と主題の中断が特徴。フォーレ自身の自動ピアノ録音も存在します。
第4番ヘ長調: 新鮮な響きと独創的な和声が特徴。旋法性と民謡風の明るさが融合し、ダリウス・ミヨーに__傑作と絶賛__されました。後に『マスクとベルガマスク』の「メヌエット」に転用されています。
第5番ニ短調: リズミカルな対立と激しい情感が特徴。オペラ『ペネロープ』の英雄__ユリース__を連想させると評されます。調性は『レクイエム』「リベラ・メ」との関連も指摘されます。
第6番変ホ短調: 3声による厳格な__カノン__形式。前の第5番とは対照的な、落ち着いた雰囲気を持ちます。
第7番イ長調: ためらいから始まり、やがて熱気を帯びた主題を経て輝きに至る劇的な変化。第5番の主題が転回して現れ、鐘の音の記憶も反映されます。
第8番ハ短調: 第2番と同様に、特定の技巧に焦点を当てた__練習曲風__の作品です。
第9番ホ短調: 曲集の終結を飾る、__深い夢幻性__を湛えた楽曲。ネクトゥーは「白の世界」と表現し、その対位法はバッハに比肩すると評される、内省的で静謐な傑作です。

この前奏曲集は、フォーレのピアノ作品のレパートリーの中でも、その多様性と内面的な深さにおいて特別な位置を占めています。

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