吉沢検校

江戸時代末期から明治時代初期にかけて活躍した盲目の音楽家、二世吉沢検校（よしざわけんぎょう）。通常「吉沢検校」といえばこの二世を指し、初世の長男にあたります。地歌三味線、箏曲、胡弓、平家琵琶といった幅広い分野に秀でた演奏家であり、作曲家としても多大な業績を残しました。

生涯

吉沢検校は、寛政12年（1800年）、一説には文化5年（1808年）に現在の愛知県愛西市で生まれました。9歳で視力を失い、父である初世吉沢検校や藤田検校から地歌、箏曲、胡弓を、荻野検校からは平曲（平家琵琶）の手ほどきを受けます。音楽の道を究める中で、天保8年（1837年）には視覚障害者の職能組合である当道座の最高位である検校に昇進しました。名古屋の伊勢町に居を構え、当道座における名前は審一（しんのいち）でした。

音楽活動の傍ら、国学者である氷室長翁に師事して国学や和歌にも深く通じ、自ら作詞した楽曲も手がけています。その楽才は幼い頃から際立っており、11歳にして地歌「屋島」に箏のパートを加えるなど、早くから独自の才能を発揮しました。

嘉永5年（1852年）には尾張藩の命により、藩内の盲人音楽家を統括する支配頭に任じられ、五人扶持という手厚い禄を受けます。尾張徳川家の様々な儀式、例えば先祖供養での平曲演奏や雛の節句での胡弓演奏などを務めたほか、豪商である松坂屋（現在の松坂屋百貨店）当主の婚礼祝いに楽曲を提供するなど、名古屋を代表する音楽家として活躍しました。裕福な夫人の実家からの支援もあり、経済的にも恵まれた環境にあり、当道座でも高位の役職を歴任しました。

しかし、その突出した才能は同時代の他の音楽家たちの妬みを買うことも多く、時には名古屋を離れて京都で過ごすことも少なくありませんでした。こうした滞在を通じて、京阪地方の音楽家たちとの交流を深めます。特に京都の光崎検校からは作曲技法において大きな影響を受け、また大阪の厳得からは胡弓の秘曲とされる「鶴の巣籠」を伝授されました。生涯にわたり名古屋と京都を数回往復しながら作曲や演奏活動を行い、多くの門弟を育成しました。その音楽の流れは、彼の没後も名古屋を中心に今日まで大切に受け継がれています。明治5年（1872年）、京都でその生涯を閉じました。

音楽上の業績

吉沢検校の音楽における業績は多岐にわたりますが、中でも特筆されるのは、幕末という変革期において、従来の音楽様式に新たな息吹を吹き込んだ点です。

復古的箏曲様式の確立

江戸中期の以降、日本の器楽は三味線が中心となって発展し、幕末にはその技巧が極みに達していました。複雑な箏のパートが三味線と絡み合う「替手」式の合奏や、「手事もの」という楽曲形式も完成を迎え、音楽表現の新たな方向性が求められる状況でした。このような時代背景の中で、吉沢検校は箏という楽器に改めて着目し、作曲に新たな地平を切り開きました。これは、元禄時代以降、三味線に対し補助的な役割に留まりがちだった箏の地位を再び高めようとする試みであり、京都の光崎検校の先行する取り組み（「五段砧」「秋風の曲」など箏のみの楽曲）に影響を受けています。

吉沢検校はさらに、古い時代の箏組歌や、雅楽家である羽塚秋楽から雅楽を学び、楽箏（がくそう）の調弦法を研究しました。この研究に基づき、従来の箏にはなかった新しい調弦法を考案し、「古今組」や「新古今組」といった、箏の特性を生かした楽曲を数多く作曲しました。これらの作品は、箏曲本来の持つ気品と雅楽のような古風な趣を備えながらも、音楽的な展開はより自由で、後の時代を予感させる印象的な描写性も兼ね備えており、彼独自のスタイルを確立しています。

明治維新後、吉沢検校の箏曲は全国的に知られるようになり、特に「千鳥の曲」に見られるような様式は、大阪を中心に各地で「明治新曲」と呼ばれる新たな箏曲群を生み出すきっかけとなりました。「千鳥の曲」にみられる海辺の情景描写は、後の時代に作曲された名曲「春の海」を彷彿とさせるものです。このように、吉沢検校（そして光崎検校）の箏作品は、「千鳥の曲」を画期として、明治以降の日本音楽の展開に大きな影響を与えたと言えるでしょう。ただし、晩年の作品では、簡潔な美を追求するあまり、流麗さが抑えられ、広く一般に受け入れられにくい傾向も見られます。これは、激動する幕末の世情や世俗を厭う、芸術家としての孤高の精神の表れであったのかもしれません。しかし、こうした吉沢の路線を受け継ぎ、京極流を創始した鈴木鼓村のような箏曲家も現れています。幕末期における箏曲分野での吉沢検校の業績は、実に計り知れないものがあります。

地歌作品と箏の手付け

吉沢検校は三味線を用いた地歌の作曲も多数手がけています。その多くは器楽部分に重きを置いた「手事もの」ですが、短い歌に焦点を当てた「端歌もの」も作曲しています。手事ものの様式は、既に完成されていた「京流手事もの」を踏襲していますが、その中にも京都の作曲家とは異なる独自の感性が息づいています。三味線の技巧も高度に駆使されており、「花の縁（えにし）」は手事が二箇所に設けられた堂々たる大曲で、器楽的な充実ぶりを示しています。この曲のほか、「玉くしげ」や「夏衣」など、明るく華やかな雰囲気の楽曲が多いのも特徴です。

また、自身の作曲したすべての楽曲に、自ら箏のパート（手付け）を施しています。幼い頃から箏に長けていた彼は、11歳での地歌「屋島」への手付けを皮切りに、既存の地歌曲にもいくつかの箏の手付けを行っています。これらの手付けも、八重崎検校など京都の音楽家によるものとは趣が異なっています。作曲で大きな影響を受けた光崎検校の「秋風の曲」に対しても、箏の替手を作成しています。後述するように、胡弓の手付けも非常に独創的なものでした。

一方、同僚たちの妬みから辛い思いをし、名古屋を離れる際に作曲したとされる端歌「捨扇」は、短いながらも非常に凝った作りになっています。流麗な中に頻繁な転調を含み、歌の節付けも工夫されており、作曲家としての技量の高さがうかがえます。同時に、この曲からは彼の失意や悲しみが深く感じられ、優雅な「千鳥の曲」や明るい「花の縁」とはまた異なる、吉沢検校の心の一面を垣間見ることができます。作曲者個人の生々しい感情を作品に直接的に表現するという点は、ある意味で近代的な感性とも言えるかもしれません。彼の作品全体を通観すると、恋愛的要素が描かれているものが少ないことも、特に地歌曲としては珍しい大きな特徴です。

胡弓音楽の開拓

吉沢検校は胡弓という楽器にも着目し、その音楽表現の可能性を広げました。それまで合奏において、胡弓は三味線の旋律にユニゾンで加わることがほとんどでしたが、吉沢検校は胡弓に独立した、技巧的かつ独創的な旋律を与え、その地位を高めたのです。この業績は、従来あまり注目されてきませんでしたが、彼の功績を語る上で非常に重要な点です。曲によっては胡弓が主役となるほど凝ったパートを作成しており、いくつかの自作曲では、三味線、箏、胡弓のすべてのパートを一人で作曲しました。また、胡弓独奏曲も残しています。特に「千鳥の曲」は、箏曲としても広く知られていますが、元々は胡弓の曲としても重要な位置を占めています。現在も吉沢検校の音楽を伝承している国風音楽会では、彼の胡弓作品である「千鳥の曲」「蝉の曲」に加え、大阪の厳得から伝えられたとされる「鶴の巣籠」の三曲を胡弓の本曲としています。

平曲の伝承

平曲（平家琵琶）は、古代日本の雅楽や声明から発展し、能楽と並んで中世日本を代表する音楽でした。当道座の盲人音楽家にとって、本来はこの平曲の演奏が正業であり、中心的な活動でした。しかし近世に入り、表現豊かな三味線が普及・完成し、箏や胡弓も加わって新たな音楽が生まれると、琵琶法師たちがこれらの楽器を用いた新音楽（地歌や箏曲）に関わるようになります。その結果、彼らの本来の芸であった平曲は停滞し、新作も生まれず、演奏できる人も次第に減少していきました。江戸時代にも平曲専門の演奏家はいましたが、衰退を止めることはできませんでした。

このような状況下で、吉沢検校は江戸時代の平曲の大流派の一つである波多野流を荻野検校に学び、自らの門弟たちに伝えました。現在、平曲の伝承はほとんど途絶えてしまっていますが、名古屋においては吉沢検校からの流れが今も継承されており、極めて貴重な存在となっています（仙台にも別の伝承が存在します）。また、吉沢検校の地歌作品の中には、平曲の節回しや表現技法の影響が見られる箇所もあり、彼が平曲の伝統を深く理解していたことがうかがえます。

「復古運動提唱」説について

吉沢検校が古い時代の箏曲や雅楽を取り入れ、多くの箏本位の楽曲を作曲したことから、かつては彼が「復古運動を提唱した」とか、「箏曲独立の精神を確立した」などと評されることがありました。しかし、吉沢検校自身がそのような主張をしたという明確な記録は見つかっていませんし、彼の作品には前述のように胡弓曲や三味線曲も少なくありません。確かに彼の箏曲には復古主義的な要素が強く見られますが、復古主義は当時の文化全般に見られた傾向であり、箏曲に特有のことではありませんでした。むしろ、彼は従来の地歌三味線音楽に加え、箏や胡弓といった楽器にも新たな表現の可能性を見いだし、それを積極的に切り開いた開拓者として評価するのがより適切と言えるでしょう。

主な作品

古今組：千鳥の曲（胡弓・箏）、春の曲（箏）、夏の曲（箏）、秋の曲（箏）、冬の曲（箏）
新古今組：山桜（箏）、新雪月花（箏）、初瀬川（箏）、唐衣（箏）
* その他：蝉の曲（胡弓・箏）、花の縁（三絃・箏）、玉くしげ（三絃・箏・胡弓）、夏衣（三絃・箏）、深山木（三絃・箏・胡弓）、新山姥（歌詞・三絃・箏）、捨扇（歌詞・三絃・箏・胡弓）など。

吉沢検校は、幕末から明治にかけての激動期において、日本の伝統音楽、特に箏曲、地歌、胡弓音楽に新たな方向性を示した重要な人物です。彼の革新的な試みと、多岐にわたる楽器への深い理解は、後世の音楽家たちに大きな影響を与え、今日の邦楽の基盤の一つを築いたと言えるでしょう。

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