夕餉前

日本初のテレビドラマ『夕餉前』

『夕餉前』（ゆうげまえ）は、1940年に日本放送協会（NHK）のテレビ技術実験放送で制作された、日本初のテレビドラマです。伊馬鵜平（後の伊馬春部）が脚本を手掛けた約12分のホームドラマで、結婚適齢期の娘の縁談を中心に、家族の日常が描かれています。

放送概要

1940年4月13日、14日、20日に、東京市世田谷区のNHK放送技術研究所のスタジオから生放送されました。放送は、NHK東京放送会館、愛宕山の旧演奏所（現在のNHK放送博物館）、日本橋三越で開催されていた「電波展」の受像機で視聴されました。20日には、上野の産業会館で開催されていた「輝く技術博覧会」の会場にも受像機が設置され、一般公開もされました。

あらすじと演出

物語は、父親を亡くし、母親と息子、娘の3人で暮らす母子家庭が舞台です。娘の縁談が決まり、嫁ぐことになったある日、夕食前に家族3人で食卓を囲み、これまでの生活を振り返ります。登場人物は3人だけですが、途中で豆腐屋の声が聞こえる演出があります。この作品の母子家庭という設定は、後の単身家庭ドラマの原型になったと評価されています。

また、劇中には、息子が放送当日の新聞を見て、トップ記事の見出しを読む場面があります。これは、録画技術がなかった当時、テレビの生放送が持つリアルタイム性、同時性を表現した演出として注目されます。

当初の脚本では、家族ですき焼きを囲む場面が予定されていました。伊馬は、テレビドラマが音声と映像を届けられる特性を生かし、「肉が焼ける音や湯気の立つ鍋、楽しそうな家族の表情」を撮影することで、食卓を囲む家族の和やかなひとときを演出したいと考えていました。しかし、技術的な制約からこの構想は実現しませんでした。しかし、この食事のシーンは、後のホームドラマで定番となりました。

キャスト

母：原泉子
兄：野々村潔
妹：関志保子

スタッフ

作：伊馬鵜平
演出：坂本朝一、川口劉二
撮影：佐藤英久
ミキサー：福岡勝之
効果：吉田貢、菱刈高男
* 受像主任：城見多津一

制作の経緯

1939年、NHK放送技術研究所（技研）は、高柳健次郎を部長に迎え、テレビジョン放送の実験放送を開始しました。実験放送の担当には、川口劉二や坂本朝一など、30歳前の若いスタッフが任命されました。

当時の技研のスタジオは、バラックのような簡素なもので、冷暖房設備もありませんでした。海外の事例を参考にする手段もなく、番組制作の参考となるものもなかったため、スタッフは不安を感じていました。

当初は、スタジオの隣のテニスコートで職員がテニスをする様子などを放送していましたが、やがてテレビドラマを制作する意欲が高まりました。川口は、以前から親交のあった伊馬鵜平に脚本を依頼しました。伊馬は当時NHKの嘱託職員であり、映画脚本の経験もあったことから、テレビドラマに適任だと判断されました。

伊馬は依頼を快諾し、約1ヶ月かけて脚本を完成させました。このテレビドラマの台本は、スタッフから「テレリオ」と呼ばれていました。

出演者は、演技経験がある人が適任だと考えた坂本は、劇団員に出演を依頼しましたが、報酬が安く、衣装も用意されないという条件で、ほとんど断られてしまいました。そんな中、「新協劇団」の原泉子、野々村潔、関志保子の3人が出演に応じました。

技術面・演出面の試行錯誤

実験スタジオは狭く、予算も限られていたため、セットを組むことが困難でした。山台を2つ並べてゴザを敷き、家に見立てた即席の舞台にし、小道具は技研の用務員室から調達しました。出演者の衣装はほとんどが自前で、母親役の原のかつらのみ専門店で借りました。

テレビカメラは2台、照明は6台を使用しました。カメラは移動台車によるパンは可能でしたが、焦点深度が浅く、ズームレンズもなかったため、被写体の前後の動きは制限され、クローズアップ撮影の際はカメラを被写体に近づける必要がありました。また、視点の高さを変えることもできませんでした。そのため、2台のカメラをそれぞれクローズアップ用とロングショット用に使用しました。俳優やカメラの動きは事前に綿密に決め、床にチョークで印をつけました。

カメラの切り替えは、2つのダイヤルを操作して真空管のバイアスを切り替えるクロスフェードのみでしたが、放送時にはうまくいかないこともありました。しかし、この画面切り替えは当時としては画期的な演出であり、高柳は実現を喜びました。また、高柳は「近くフェードアウトやオーバーラップができるようになる」と予測していました。

当時の放送用カメラは感度が悪く、照明を強くする必要がありました。しかし、照明を強くするとスタジオの気温が上がり、出演者の髪や衣装が焦げる危険性がありました。そのため、上演時間は15分に制限され、テスト中は出演者にパラソルを差したり、特定の出演者にライトを集中させないなどの対策がとられました。

当初予定されていたすき焼きの場面は、15分という時間内で調理と食事をすることが難しいため、牛肉の包みを持ち帰る場面に変更されました。

本番の6日前から稽古が始まり、12日からカメラリハーサルが行われました。

放送後の反響・社会への影響

初日の放送には、東宝砧撮影所の滝沢修や宇野重吉、新協劇団の団員、作家の徳永直、中野重治など、多くの著名人が見学に訪れました。放送後、三越の「電波展」会場から技研に電話があり、逓信大臣が来場したため、もう一度放送してほしいと依頼され、再演に応じました。4月14日と20日にも再演が行われました。

川口はドラマの出来を「紙芝居に毛が生えた程度」と謙遜しましたが、この挑戦は、技研スタッフのテレビドラマ制作への意欲を高めました。同年には、中村メイコらが出演する『謡と代用品』など、2作目のテレビドラマも制作されました。しかし、実験放送でのテレビドラマ制作は、オリジナル2作とラジオドラマのテレビドラマ化1作の計3作で終了しました。実験放送自体も、1941年5月に週1回の定期放送が始まりましたが、6月末で中止となり、同年12月に太平洋戦争の勃発により全面的に中止されました。テレビ実験放送の再開は、終戦後の1946年6月でした。

資料

放送当時の映像記録は現存していません。当時の技術では映像を記録する手段がなかったためです。現存する資料は、制作中に撮影された数点の写真、台本、坂本朝一の証言（インタビューを記録したカセットテープと著書）のみです。ニュース映画のカメラマンが撮影したスタジオの様子を記録した映像は現存しており、NHK放送博物館で視聴可能です。

『夕餉前』は、技術的に未熟な時代に制作されたにもかかわらず、その後のテレビドラマの基礎を築いた重要な作品です。制作に関わった人々の情熱と努力によって、日本のテレビドラマ史に大きな足跡を残しました。

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