寿産院事件

寿産院事件は、1948年（昭和23年）1月に明るみに出た、嬰児の大量死亡を伴う貰い子殺人事件です。戦後の混乱期にあった東京、新宿区の寿産院という助産院で発生しました。

事件の概要

1948年1月、東京都新宿区の寿産院において、預けられていた多数の嬰児が劣悪な環境下で死亡していた事実が明らかになりました。事件の中心人物は、助産院を経営していた助産婦の石川ミユキとその夫、猛です。彼らは、預かった嬰児の養育を意図的に怠ることで死に至らしめる一方、養育料の横領や配給品の横流しによって多額の利益を得ていたことが判明し、当時の社会に大きな衝撃を与えました。この事件を契機として、全国で同様の事件が次々と露呈し、産児制限の必要性が広く認識されるようになり、その後の優生保護法が制定されるきっかけの一つとなりました。また、事件は関連する職能団体にも影響を及ぼし、一部の解散や分裂を引き起こしました。

主犯格について

主犯である石川ミユキ（旧姓：小丸）は、1897年2月5日に宮崎県で生まれました。宮崎県立職業学校を卒業後18歳で上京し、1919年に東京帝国大学医科大学附属医院産婆講習科を修了。これは当時の女性としては非常に高い学歴であり、この卒業により無試験で産婆資格を取得しています。その後、都内で30年以上にわたり産院を経営しました。一方、夫の石川猛はミユキより3歳年上で、茨城県の出身です。農学校を中退後、憲兵軍曹や警視庁の巡査を務めた経歴を持ちます。退官後は特定の職に就かず、妻の事業を手伝い、預かり子の手続き全般を担当していました。猛には過去に詐欺事件を起こした経歴もあります。

ミユキには実子がいませんでしたが、猛の先妻との間の息子や養子と共に暮らしていました。事件発覚時、ミユキは助産婦関連の複数の要職に就いており、1947年の婦人年鑑で女性の第一人者として紹介されるなど、社会的な地位も有していました。同年4月には新宿区の区議会議員選挙に立候補しましたが落選しています。

犯行の手口

石川夫妻は1943年頃から、主に未婚の男女の間に生まれた私生児や、様々な事情で親が養育できない子供を預かり、養育後に子供を求める夫婦に斡旋するという特殊な事業を開始しました。当時の日本は堕胎罪により人工妊娠中絶が厳しく制限されており、子供を預ける母親の中には戦争未亡人、ダンサー、女給、娼婦などがいました。夫妻は新聞に広告を出し、嬰児を引き取る際に養育料として高額な金銭を受け取り、さらに養親へ斡旋する際には別途費用を請求していました。これらの養育料を不正に流用するだけでなく、配給された粉ミルクや砂糖、さらには死亡した嬰児の葬儀に使うはずだった清酒まで闇市で売り捌き、事件発覚までに巨額の利益を得ていたとされています。この収入で夫妻は裕福な暮らしを送り、高価な電話機を設置したり、不動産を購入したりしていました。

預かる子供の数が増える一方で、貰い手が少なくなるにつれて、夫妻は預かった嬰児への処遇を著しく悪化させました。通常必要なミルクの半分程度しか与えず、衛生状態も劣悪で、医師の診察は死の直前にしか行われませんでした。このようにして、「売れ残り」と化した多くの嬰児を栄養失調で死亡させ、冬期には適切な保温を怠って凍死させることもありました。寿産院に勤務していた助産婦たちは、嬰児の増員やミルクの増量、保温を繰り返し訴えましたが、ミユキはそれらを無視し、指示通りに行うよう強要しました。預かり子に関する記録や死亡診断書の作成なども杜撰で、不正が横行していました。

事件の発覚

事件は1948年1月12日夜、早稲田警察署の警察官が警戒中の職務質問から始まりました。自転車で木箱を運んでいた葬儀屋に声をかけたところ、箱の中に乳児の遺体が入っていることが判明しました。葬儀屋は寿産院から頼まれて遺体を運んでいる最中であり、これまでに30体以上の火葬を依頼されたと供述しました。この異常な事態に気づいた早稲田警察署長の指示により捜査が進められ、翌朝の司法解剖の結果、遺体の死因が餓死や凍死であったことが判明します。これにより、養育放棄による殺人容疑が強まり、1月15日早朝、石川ミユキ、猛、そして葬儀屋が逮捕されました。寿産院の捜索では大量の粉ミルクや砂糖が押収され、生存していた7人の乳児のうち、一部は死亡、一部は引き取られるなどして、消息が不明となった者もいました。

その後の展開と社会の反応

逮捕後、葬儀屋は遺体を1体あたり500円で処理していたことが分かりました。葬儀屋の自宅などから大量の遺骨が発見され、これまでの犠牲者の多さが明らかになりました。1月18日には助産婦助手も共犯として逮捕されました。ミユキには助産婦業務の禁止命令が出されました。ミユキは自身の行為を正当化する発言を繰り返しましたが、その背景には医師による偽造死亡診断書の作成など、様々な関係者の関与も浮上しました。

事件は社会に大きな衝撃を与え、警察署に抗議する群衆が集まる事態となりました。一方で、当時の食糧難や、犠牲となった子供たちの多くが「不義の子」と見なされていたことから、事件に対する同情論や容認するような意見も一部で聞かれました。これに対し、作家の宮本百合子や衆議院議員の山崎道子らは、子供に区別はなく、社会全体で保護されるべきだと強く訴えました。GHQ/SCAPも事件に注目し、調査官を派遣しました。また、事件を巡っては、事件発覚前の異常な状況を把握していながら適切な対応をとらなかった警察や行政に対する批判も巻き起こりました。

類似事件の続発と対策

寿産院事件の発覚後、東京や大阪で同様の乳児大量死亡事件が次々と明らかになり、産院ビジネスの闇が露呈しました。事件の原因としては、堕落した風紀や配給不足、婚外子を保護する施設の欠如などが指摘されました。これを機に、人工妊娠中絶の合法化や母子保護の強化、産児調節の普及などを求める声が高まりました。行政も対策に乗り出し、乳児預かり業の認可制を定める条例が制定されたほか、助産婦の業務に関する広告規制も強化されました。そして、この事件が大きな要因の一つとなり、1948年7月に優生保護法が制定され、翌年の改正で経済的理由による人工妊娠中絶が法的に認められることになります。また、この事件は助産婦の職能団体にも影響を与え、日本助産婦会が解散に追い込まれるなど、医療専門職のあり方にも波紋を広げました。

裁判の経緯

石川夫妻と助手Kは殺人罪で起訴され、1948年6月から東京地裁で裁判が始まりました。被告人らは殺意を否認しましたが、一審判決では、石川夫妻が共謀して嬰児を栄養失調死させた不作為犯として、5名に対する殺害が認定されました。ミユキに懲役4年、猛に懲役2年の判決が下されましたが、助手Kは無罪となりました。夫妻は即日控訴し、裁判は東京高裁へ移ります。1952年4月の控訴審判決では、一審判決が破棄され、ミユキに懲役4年、猛に懲役2年（一審と同じ刑期だが、事実認定が異なる可能性）が改めて言い渡されました。夫妻は最高裁に上告しましたが、1953年9月に棄却され、二審判決が確定しました。

後日談

事件発覚からしばらく経った後も、石川ミユキは寿産院の建物に住み続け、部屋を貸し出そうとするなど、したたかな一面を見せました。事件から21年後の1969年、週刊誌の取材に応じたミユキは、嬰児に手を下した事実はないとして、涙ながらに自身の無実を訴えました。出所後は行商を経て不動産業を営むまでになり、晩年、夫の死別を経て大きな墓を建て、「ここにありですよ」と豪語したと伝えられています。ミユキは1987年5月30日に91歳で亡くなりました。

寿産院事件は、戦後の混乱期における社会のひずみ、特に女性や子供を取り巻く厳しい現実を浮き彫りにした悲劇的な事件であり、その後の法制度や社会意識に大きな影響を残しました。

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