橘広相

橘広相（たちばな の ひろみ）：平安前期の知性と波瀾の生涯

橘広相は、平安時代前期に活躍した公卿であり、卓越した学識を持つ学者でした。橘氏長者である橘峯範の次男として生まれ、幼名は博覧と称しました。後に広相と改名しますが、これは父の進言によるもので、仏菩薩や聖賢の名を避けるためでした。

学問と官歴

広相は、紀伝道（歴史や文章を研究する学問）を菅原是善に学び、その才能を早くから開花させました。文章生（もんじょうのしょう、官僚養成のための学生）となってわずか5年で対策（官僚採用試験）に合格し、その学才を世に示しました。六位蔵人、右衛門大尉を経て、31歳で文章博士（もんじょうはかせ、文章に関する最高権威）に任命されるという異例の出世を果たしました。

東宮学士（皇太子の教育係）にも任じられ、当時の摂政・藤原良房との密接な関係が指摘されています。民部少輔、左右少弁などの実務官僚も務め、清和朝後半には東宮学士の傍ら、政治の中枢でも活躍しました。

太皇太后・藤原順子の喪に際しては、服喪期間について儒学者や紀伝道学者たちと議論になり、広相は『養老令』『儀礼』『唐礼』などを根拠に、5ヶ月間の服喪を主張しました。これは他の学者たちよりも圧倒的に長い期間であり、藤原氏の勢力拡大に貢献したとされる順子の重要性を高めようとしたのではないかとの指摘もあります。また、渤海使との宴席で詩賦を披露するなど、国際的な交流にも携わっています。

陽成天皇の即位後には、その功績によって正五位上・式部大輔に昇進。その後、蔵人頭に任命され、実務能力を発揮しますが、約2年半で辞任しています。その理由は病気とも、高子と対立する摂政・藤原基経に近かったためとも推測されますが、明確な史料は残されていません。

光孝天皇の即位後には、従四位上に叙せられ、読書始では侍読を務めました。文章博士に再任され、参議に抜擢されるという異例の昇進を果たし、橘氏として久しぶりに議政官に名を連ねることになりました。この際、娘の義子を、後の宇多天皇となる源定省と結婚させています。光孝朝では文章博士と議政官を兼任し、左右大弁などの要職を歴任しました。

阿衡事件

宇多天皇の即位後、広相は正四位下に昇叙されました。天皇は広相を「大学者」と高く評価していました。天皇が藤原基経に執政を任ずる詔書を広相に作成させた際、「阿衡の任にあたる」という文言が用いられました。しかし、文章博士の藤原佐世は「阿衡は位は高いが、具体的な職掌がない官職」と主張し、基経は政務を放棄してしまいます。

この事件は、朝廷内での激しい権力闘争へと発展しました。明経博士らが佐世の意見を支持する答申を行う中、広相は佐世らと天皇の前で議論を重ねましたが、事態は打開しませんでした。最終的に天皇は広相が作成した詔勅が自身の意に沿わないものだったと認め、広相は責任を問われることになります。公卿たちは大祓をボイコットするという前代未聞の事態にまで発展しましたが、最終的には天皇と基経との和解が図られ、広相は処分を免れました。

その後と死

阿衡事件で失脚したかに見えた広相ですが、その後の官歴も重ね、寛平2年（890年）に亡くなりました。最終官位は参議正四位上兼行左大弁。同日、従三位・中納言が追贈されました。

逸話

広相は早熟な才能を持ち、9歳にして童殿上の際に漢詩を詠んだという逸話も残っています。



橘広相は、その学識と政治手腕により、平安時代前期の朝廷で重要な役割を果たしました。しかし、阿衡事件という政治的波乱の中で、その才能は十分に発揮されたとは言えません。彼の生涯は、平安貴族社会の複雑な人間関係と権力闘争を物語る上で、重要な事例として捉えることができます。

官歴

貞観2年（860年）4月26日：文章生
貞観5年（863年）2月10日：越前権少掾
貞観6年（864年）8月8日：対策及第
貞観9年（867年）2月11日：文章博士
貞観10年（868年）10月11日：博覧から広相に改名
貞観11年（869年）2月1日：東宮学士（貞明親王立太子）
貞観12年（870年）2月14日：民部少輔
貞観19年（877年）1月15日：式部大輔
貞観19年（877年）2月：蔵人頭
元慶8年（884年）5月26日：兼文章博士
元慶8年（884年）12月5日：参議
仁和3年（887年）11月17日：正四位下
寛平2年（890年）5月16日：卒去

系譜

父：橘峯範
母：藤原末永の娘
妻：雄風王（万多親王の第四皇子）、博風王、雅風王または惟風王の娘
男子：橘公廉
男子：橘公材
男子：橘公頼
女子：橘義子 - 宇多天皇女御

参考文献

滝川幸司「橘広相考」『奈良大学大学院研究年報 第18号』奈良大学、2013年
滝川幸司「橘広相考 二」『奈良大学紀要 41号』奈良大学、2013年
滝川幸司「橘広相考 三」『奈良大学大学院研究年報 第19号』奈良大学、2014年
滝川幸司「橘広相考 四」『奈良大学紀要 42号』奈良大学、2014年
滝川幸司「道真の同僚」『奈良大学紀要 35号』奈良大学、2007年
古藤真平「<共同研究報告>『政事要略』阿衡事所引の『宇多天皇御記』 : その基礎的考察」『日本研究』第44巻、国際日本文化研究センター、2011年

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