ティツィアーノの『聖愛と俗愛』:謎に包まれた寓意
『聖愛と俗愛』(伊: Amor sacro e Amor profano, 英: Sacred and Profane Love)は、
ルネサンス期の巨匠
ティツィアーノ・ヴェチェッリオが1514年頃に描いた
油彩画です。
ヴェネツィアの十人委員会の書記官ニッコロ・アウレリオと若い未亡人ラウラ・バガロットの結婚を祝うために制作されたと推測されています。この作品は、その謎めいた要素から
美術史において最も研究されている作品の一つであり、解釈を巡る議論が絶えません。
制作背景
絵画に描かれた
紋章から、1514年5月に行われたニコロ・アウレリオの結婚式との関連が指摘されています。花嫁ラウラ・バガロットの父は、
ヴェネツィア共和国を裏切ったとして処刑されたものの、後に無実が証明されたという複雑な背景があります。この出来事が絵画の寓意に影響を与えている可能性も指摘されています。
作品の特徴
作品には、同一人物と思われる二人の女性像が、
石棺のような水槽に座っています。その間にはキューピッドがおり、水に手を浸して遊んでいます。左側の女性は豪華なドレスを身に着けており、
ギンバイカで髪を飾っています。一方、右側の女性は裸で、赤いマントを羽織っています。この対照的な姿が「聖愛」と「俗愛」を表していると考えられてきました。しかし、近年ではこの解釈が逆転し、ドレスを着た女性が「俗愛」、裸の女性が「聖愛」を示すという説が有力になっています。
水槽: 古代
ローマの
石棺を模していますが、実際には見られない広いへりがあります。注ぎ口からは水が流れ出ており、これはニッコロ・アウレリオの
紋章と関連付けられています。
キューピッド: 水を覗き込む姿で描かれています。ヴィーナスの息子または単なるプットーと考えられています。
ドレスを着た女性: 花嫁を象徴すると考えられていますが、高級娼婦を連想させるという解釈もあります。
ギンバイカは、ヴィーナスの花であり、花嫁の象徴でもあります。
裸の女性: 香炉を持ち、水槽のへりに楽な姿勢で座っています。聖愛を象徴するとされています。
水槽の彫刻: 男性が鞭打たれ、女性が髪を引かれ、馬が導かれる様子が描かれています。これは、情熱の抑制を象徴しているという説や、アダムとイブ、
カインと
アベル、聖パウロの回心を表現しているという説があります。
風景: 左側には城や村落があり、右側には水辺の村落や狩りの風景が描かれています。これは、ティツィアーノが影響を受けたセラヴァッレ近くのヴァル・ラピシーナの風景や、
アーゾロの丘の風景を反映している可能性があります。
様式
この作品には、ティツィアーノの師であるジョルジョーネの要素も見られますが、ティツィアーノ自身の成熟したスタイルが確立されていることを示しています。また、同時代の宗教画にも似た要素が見られます。特に、
ロンドンのナショナル・ギャラリーにある『ノリ・メ・タンゲレ』には、同じような建物が描かれています。ティツィアーノは、古典的な様式に独自の解釈を加え、強い個性を発揮しています。
画材
蛍光X線分析により、
鉛白、アズライト、鉛錫黄、ヴァーミリオン、黄土色などが使用されていることが判明しています。
解釈
絵画の解釈は多岐にわたり、特に二人の女性像が何を象徴しているのかについて議論が続いています。かつては、「聖愛」と「俗愛」の対比と考えられていましたが、近年では「天上のヴィーナス」と「地上のヴィーナス」を表しているという解釈が有力です。この「双子のヴィーナス」の概念は、古典文化と
ルネサンス期の
新プラトン主義に由来します。また、結婚を記念する絵画として、花嫁と女神ヴィーナスを象徴しているという説もあります。
来歴
この絵画は、1608年にスピキオーネ・ボルゲーゼ
枢機卿によって購入され、現在は
ローマのボルゲーゼ美術館に所蔵されています。1903年には、
美術商が購入を試みましたが、
イタリア政府が国外流出を防ぐために介入しました。1995年に洗浄と裏打ちが行われ、より鮮明な色彩が蘇りました。
まとめ
ティツィアーノの『聖愛と俗愛』は、
ルネサンス期の複雑な寓意と象徴を体現した作品です。その多層的な解釈は、観る者を魅了し、
美術史研究において重要な位置を占めています。この作品は、ティツィアーノの卓越した画力と、当時の思想や文化を反映した傑作として、後世に語り継がれていくでしょう。