詩集伝

朱熹『詩集伝』：詩経解釈の新たな地平

『詩集伝』（ししゅうでん）は、南宋の儒学者朱熹（1130-1200）が著した『詩経』の注釈書です。全20巻からなる大著であり、朱熹の思想と『詩経』解釈への深い関わりを示す重要な作品と言えるでしょう。

成立と特徴

『詩集伝』は、朱熹が『詩集解』を基に、およそ淳熙13年（1186年）に完成させたとされています。既存の注釈書、特に『詩集解』を繰り返し改訂・精緻化することで完成したものであり、単純な焼き直しではなく、朱熹自身の深い理解と独自の解釈が反映されています。

従来の『詩経』解釈では、「詩序」と呼ばれる各詩の冒頭に記された解説が重視されていましたが、『詩集伝』はこれを用いないことを特徴としています。訓詁学（古典の解釈学）の新たな局面を開拓したと言えるでしょう。具体的な解釈例としては、

「月出皎兮、佼人僚兮」（陳風・月出）を、「皎」は月光、「佼人」は美人、「僚」は美しい容姿と解釈
「薄采其茆」（魯頌・泮水）を、「茆」はフキ（植物）の一種であり、江南ではジュンサイと呼ばれていると解釈

など、具体的な記述に基づき、詳細な解説がなされています。

さらに朱熹は、『詩経』における表現技法である「賦・比・興」を以下の様に定義し、各詩にどの技法が用いられているかを明確に示しています。

賦：事実を直接的に描写する表現
比：ある物事を別の物事にたとえる表現
興：他の物事を述べることで、詠嘆する対象を連想させる表現

各章の末尾には「賦也」、「比也」、「興也」といった記述があり、時には複数の技法が用いられている場合も詳細な注記で説明されています。解釈が困難な部分には「未詳」と記し、不明な点は素直に認める姿勢も示しています。

しかし、『詩集伝』が「詩序」を完全に無視しているわけではありません。部分的に「詩序」の解釈を参照している箇所も見られ、また、朱熹自身の理学的思想、「天理を存し、人慾を滅す」という立場から詩を解釈しているため、現代的な視点からは詩の意味を曲解している部分も存在します。「桑中」「采葛」「丘中有麻」など、性的な描写を含む詩は「淫詩」として退けられています。

成立過程と影響

『詩集伝』は、蘇轍の『詩集伝』、范処義の『詩補伝』といった先行研究を基礎とし、王粛、歐陽修、張載などの成果も取り入れています。また、鄭樵の『詩伝辨説』で提唱された「疑序」（詩序を疑う）という考え方を継承・発展させています。

束景南の研究によれば、朱熹は『詩集解』を最初に作成し、それを基に『詩集伝』を完成させるまで40年以上を費やし、3度の大きな改訂を行ったとされています。淳熙5年（1178年）には「詩序」を廃し、毛伝・鄭箋に依拠することなく、様々な解釈を広く取り入れるようになったとされています。現在『詩集解』は散逸していますが、呂祖謙の『呂氏家塾読詩記』からその一部が復元されています。

初版の『詩集伝』は全20巻で、『詩序弁説』が巻末に付されていましたが、その後散逸しました。南宋の王応麟は『詩考序』で『詩集伝』を高く評価し、明代には科挙の標準教科書として用いられました。しかし、清代考証学の隆盛期には、毛伝・鄭箋への回帰が進む中で、閻若璩、毛奇齢、陳啓源らによって『詩集伝』は批判の対象となりました。

近年の研究では、『詩集伝』は集伝形式の『詩経』研究の最高水準を示したと評価され、漢代・宋代の解釈の限界を打破し、様々な解釈を統合した点が高く評価されています。

参考文献

銭穆『朱子新学案』朱子之詩学
莫励鋒『朱熹文学研究』
束景南『朱子大伝』

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