音楽家の肖像

レオナルド・ダ・ヴィンチ『音楽家の肖像』

『音楽家の肖像』は、レオナルド・ダ・ヴィンチが1483年から1487年頃に制作したとされる未完成の油彩画です。クルミ材の板に油彩とテンペラを用いて描かれ、レオナルドがミラノ滞在中に手掛けた唯一の板絵として知られています。この作品は、レオナルドの男性肖像画として現存する唯一のものであり、モデルの特定は長年にわたり議論されてきました。

作品の特徴

この肖像画は、4分の3正面を向いた若い男性の胸像を描いており、右手に折りたたまれた楽譜を持っています。顔と髪の毛以外は未完成の状態ですが、保存状態は良好です。黒い背景は、レオナルドの他の肖像画『白貂を抱く貴婦人』や『ラ・ベル・フェロニエール』を彷彿させます。しかし、モデルの身体と頭部の向きが同じである点が、これらの作品とは異なります。未完成のため、影の表現はやや粗く、油絵具の層も薄いのが特徴です。

モデルは肩まで届く巻き毛で、赤い帽子を被り、視線は鑑賞者から外れた一点を見つめています。その視線は、顔、特に大きな目に当てられた注意深い光によって強調されています。モデルは白い下着を身につけ、黒い上着は未完成で、茶色がかったオレンジ色のストールは下塗りの状態です。技術調査によると、上着は元々暗赤色、ストールは明るい黄色であったと考えられています。口元は微笑んでいるようにも、歌おうとしているようにも見えます。特徴的なのは、光が目に及ぼす影響で、両目の瞳孔は拡張していますが、右目が左目よりも大きく描かれています。これは劇的な効果を狙ったものと考えられます。

楽譜

モデルが持つ楽譜は、奇妙なほど丁寧に折りたたまれた紙に書かれており、音符と文字が記されています。紙の下部が損傷しているため、文字や音符の判読は難しいですが、「カント」と「アン」の文字が判読できます。これは「Cantum Angelicum」（天使の歌）または「Cantore Angelico」（天使の歌手）と解釈されています。音符は計量記譜によるもので、ポリフォニー音楽を表している可能性があります。ただし、楽譜がレオナルド自身によるものかは不明です。

帰属問題

長らくレオナルドの真作かどうかが議論されてきましたが、現在ではほとんどの専門家がレオナルドの作品であると認めています。1672年のアンブロジアーナ絵画館の目録ではレオナルド作と記載されていましたが、後にベルナルディーノ・ルイーニ作とされました。しかし、その後再びレオナルド作と訂正されました。20世紀までは、ミラノ公爵ルドヴィーコ・スフォルツァの肖像画であると考えられていましたが、1904年から1905年の修復で楽譜を持つ手が発見され、音楽家の肖像であると判明しました。レオナルドへの帰属は、他の作品との様式的類似性、特に『岩窟の聖母』の天使の顔や、『荒野の聖ヒエロニムス』の聖ヒエロニムスの顔との類似性に基づいて判断されています。また、『白貂を抱く貴婦人』とX線検査で様式的類似性が認められ、暗い背景の使用や、カールした髪の毛もレオナルドの特徴です。さらに、クルミ材の使用もレオナルドが好んだものでした。

絵画の一部がレオナルドの弟子によるものであるという説もあります。特に、身体の硬直した様子から、ボルトラフィオやアンブロージョ・デ・プレディスの関与が指摘されていますが、レオナルドが弟子に制作を任せたという確固たる証拠はありません。

制作年代

制作年代は、レオナルドがミラノに滞在していた最初の期間（1482年–1499年頃）とされています。初期には1485年から1490年、あるいは1490年頃とされていましたが、現在では1483年から1487年頃と考えられています。これは、『白貂を抱く貴婦人』と比較して人体のリアリズムや洗練度に欠けるため、レオナルドが解剖学の研究を始めた後ではないと推測されているからです。

歴史的背景

本作は、15世紀のミラノの肖像画の様式から大きく逸脱しています。当時のミラノでは、横顔の肖像画が主流でしたが、レオナルドはアントネロ・ダ・メッシーナの影響を受け、4分の3正面向きの肖像画を描きました。アントネロは黒い背景を持つ肖像画をイタリアに導入し、レオナルドはアントネロの様式を参考に、この作品を描いた可能性があります。

来歴と展示

『音楽家の肖像』は、レオナルドの唯一の男性肖像画であり、ミラノに残る唯一の板絵です。1672年にアンブロジアーナ絵画館の目録に初めて記録され、1796年にはナポレオンによってフランスに持ち去られたという説もありますが、1798年にはアンブロジアーナ美術館に戻っています。近年の主要な展覧会にも展示されており、多くの人々に鑑賞されています。

モデルの特定

1904年から1905年の修復まで、ルドヴィーコ・スフォルツァがモデルだと考えられていましたが、修復で楽譜を持つ手が発見されたことにより、音楽家がモデルであると判明しました。以降、様々な人物が候補として挙げられていますが、特定には至っていません。

候補者:

フランキヌス・ガフリウス: 音楽理論家で、レオナルドと親交があったとされています。楽譜の文字を「Cantum Angelicum」と解釈したことから候補に挙げられましたが、年代や衣装などの点で疑問視されています。
アタランテ・ミリオロッティ: トスカーナ出身の音楽家で、レオナルドの友人であったとされています。1482年のレオナルドのメモに「顔を上げたアタランテの肖像画」という記述があることから有力候補とされています。
ジョスカン・デ・プレ: フランドル出身の作曲家で、スフォルツァ家に仕えていました。楽譜上の文字を曲の形式と関連付け、候補として挙げられましたが、決定的な証拠はありません。
ガスパル・ファン・ヴェールベケ: オランダ出身の作曲家で、スフォルツァ家に仕えていました。法廷音楽家の服装に関する手紙を根拠に候補に挙げられましたが、決定的な証拠はありません。

その他にもジャン・ガレアッツォ・スフォルツァ、フランチェスコ・カノーヴァ・ダ・ミラノ、ジョヴァンニ・コルディエなどが候補として挙げられていますが、いずれも確証はありません。

作品への批評と解釈

『音楽家の肖像』に対する評価は歴史的に様々です。19世紀の美術史家ウジェーヌ・ミュンツは、その活力と表現力を賞賛しましたが、不機嫌な表情や未完成さを批判しました。作品の未完成さや表現の欠陥を指摘する声がある一方、人物の緊密な凝視や心理的表現を高く評価する声もあります。キアロスクーロの使い方も意見が分かれています。一部の研究者は、本作を演奏を終えたばかり、あるいは演奏中の音楽家の姿を描いたものと解釈しています。また、レオナルド自身の芸術観を表すものとして、絵画が他の芸術形式よりも優れているという主張を反映しているとする解釈もあります。

また、音楽の儚さと、絵画の永続性との対比を示唆しているとも考えられています。別の解釈では、レオナルドが単に男性の美を描きたかったか、または個人的な贈り物として制作されたという説もあります。

まとめ

『音楽家の肖像』は、レオナルド・ダ・ヴィンチの卓越した技術と芸術的才能を示す傑作です。未完成ながらも、その人物表現は見る者を魅了し、音楽と絵画の関係について深く考えさせます。モデルの特定は謎のままですが、その魅力は色褪せることなく、今も多くの人々を惹きつけています。

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