馬込文士村

馬込文士村とは

大正時代の後期から昭和初期、およそ1920年代から1930年代にかけて、東京府荏原郡馬込村（現在の東京都大田区山王、馬込、中央周辺）には、多くの作家や芸術家たちが集まって暮らしていました。この地域は「馬込文士村」と呼ばれ、一時は100人近くもの文化人がこの地に居を構えていたと言われます。この特別な集まりは、日本の近代文学史において重要な一章を形成しました。

文士が集まった背景

馬込一帯は、江戸時代には静かな農村でした。しかし、1876年に東海道線（現在の京浜東北線）の大森駅が開業したことが、この地を変える契機となります。駅の開業により、現在の山王周辺は東京近郊の別荘地として開発が進み、文化的背景を持つ人々が訪れるようになります。当時の大森には、射的場や海水浴場があり、外国人技術者も暮らすなど、モダンな一面も持ち合わせていました。

明治時代の終わり頃には、画家や詩人たちが山王エリアに住み始め、後の文士村の土壌が作られました。日夏耿之介や小林古径、川端龍子、伊東深水といった人々がその中心で、彼らは大正時代に入ると「大森丘の会」という集まりを結成し、地元の「望翠楼ホテル」で頻繁に交流しました。この会合はメンバー間の結束を強め、それぞれの創作活動に影響を与えたとされています。望翠楼ホテルは1912年に開業し、堀口大学が定宿としていた記録から、横浜から神奈川県庁の一部を移築した建物であったことが分かっています。

文士村が本格的に形成される大きなきっかけとなったのは、1923年（大正12年）に関東大震災が発生したことです。壊滅的な被害を受けた都心部から、多くの被災者が家を求めて郊外へと移り住みました。東京近郊でありながら、まだ農村の面影を残していた馬込周辺も、この頃から徐々に住宅地へと姿を変えていきます。

時を同じくして、目黒蒲田電鉄（現在の東急目蒲線）が開通し、交通の便が飛躍的に向上しました。このような社会情勢の変化、交通網の整備、そして既に馬込に暮らしていた尾崎士郎や萩原朔太郎といった文士たちの熱心な誘いもあって、大正末期から昭和初期にかけて、多くの文士が次々とこの地に集まるようになったのです。特に、この時期に形成された「馬込文士村」の中心的存在となった尾崎士郎の自宅は、文士たちの交流拠点となり、「馬込放送局」とまで称されるほどでした。

活発な交流と多様な顔ぶれ

馬込文士村に暮らした文士たちは、非常に活発に交流しました。文学談義はもちろん、酒を酌み交わしたり、麻雀やダンスを楽しんだりと、親密な時間を共有しました。長谷川潔は当地で同人誌『仮面』を主宰し、堀口大学らがこれに参加するなど、共同での創作活動も行われています。

この地に集まった文士の顔ぶれは非常に多彩でした。尾崎士郎をはじめ、今井達雄、川端康成、衣巻省三、榊山潤、藤浦洸、間宮茂輔、広津和郎、宇野千代、佐多稲子、吉屋信子、村岡花子、萩原朔太郎、室生犀星、三好達治など、近代文学史に名を刻む作家たちが名を連ねています。既に評価を確立していた作家から、これから売り出そうという若手まで様々でした。

特筆すべきは、宇野千代、佐多稲子、吉屋信子、村岡花子、片山広子といった複数の女性作家たちが同時期に近隣で暮らし、活発に交流していたことです。これは世界的にも珍しい例とされています。歌人の片山広子がこの地に移り住んだのを、村岡花子が追うように移ってきたのが、女性作家たちの交流が深まるきっかけの一つとなりました。

彼らの生活は、名が知られていても経済的には決して裕福ではなかったのが実情です。多くの若手文士が馬込を選んだ理由の一つに、「家賃が手頃だったこと」が挙げられることも少なくありません。それでもなお、この地での濃密な交流は、それぞれの文学作品に大きな影響を与えました。この大正末期から昭和初期にかけての時期が、馬込文士村の最も賑わった最盛期と位置付けられています。

文士村の変遷、そして現代へ

馬込文士村の最盛期は、中心人物の一人であった尾崎士郎が一時的に馬込を離れた1930年（昭和5年）頃まで続きました。これ以降、馬込を離れる文士もいましたが、移住の人気は落ち着いたものの、多くの文士がそのまま当地に定住し、交流は続きました。新たに稲垣足穂や小島政二郎らがこの地の文学圏に加わっています。特筆されるような集団での交流は、おおむね第二次世界大戦が始まる頃まで続いたと考えられています。

興味深いことに、一時馬込を離れた尾崎士郎は、再びこの地に戻り、生涯を終えました。彼に限らず、馬込にそのまま定住し、人生の幕を閉じた文士も少なくありません。

現代においても、この地に多くの著名な作家が暮らした歴史は大切に受け継がれています。地元の自治体や馬込文士村継承会などが、当時の文士たちの功績の研究や顕彰活動を行っています。都営地下鉄浅草線の西馬込駅前の商店街は「馬込文士村商店会」と名付けられ、毎年春には「馬込文士村大桜まつり」が開かれるなど、地域に根差した活動が見られます。また、大田区内には、大田区立郷土博物館の常設展示をはじめ、尾崎士郎記念館、伊東深水旧居跡である池上梅園、川端龍子記念館、徳富蘇峰の山王草堂記念館、熊谷恒子記念館など、馬込文士村にゆかりのある人物や歴史を紹介・顕彰する施設が点在しており、その足跡をたどることができます。

馬込文士村は、短期間ではありましたが、多様な才能が集まり、互いに刺激し合い、日本の近代文学に独自の彩りを加えた特別な場所でした。その歴史は、今もこの地で静かに息づいています。

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