SIGSALY

SIGSALYとは

SIGSALY（シグサリー）は、第二次世界大戦中にアメリカのベル研究所で開発された秘話装置です。イギリスのチャーチル首相とアメリカのルーズベルト大統領との秘密会談など、連合国間の重要な通信に使用されました。このシステムは、当時としては画期的なデジタル音声通信技術と高度な暗号化技術を組み合わせたものでした。

SIGSALYという名称はアメリカ陸軍通信隊でのコードネームであり、ベル研究所では「Xシステム」や「プロジェクトX」と呼ばれていました。また、通信時に発生する特徴的なデジタル変調音から「グリーン・ホーネット」というニックネームも付けられていました。

概要

1943年に運用が開始されたSIGSALYは、1946年まで使用され、3,000回を超える秘密会議がこのシステムを通じて行われました。当時の最新技術が結集されており、世界初の実用的なデジタル音声通信システムであり、音声通信と近代的な暗号を組み合わせた最初の装置でもあります。

真空管とアナログ回路で構成されたSIGSALYは、当時としては非常に大規模で複雑なシステムでした。その重さは約55トン、消費電力は30kWに達し、設置には空調設備の整った広い部屋が必要でした。暗号化にはバーナム暗号を応用したワンタイムパッド方式が採用され、音声信号の暗号化には、二極真空管が発生する雑音をデジタル化した乱数が使用されました。この乱数はレコードに記録され、通信ごとに使い捨てられました。

SIGSALYの存在と技術内容は長らく秘密にされていましたが、1975〜1976年にベル研究所が出願した関連特許が一般に公開されました。

特徴

SIGSALYは、当時としては非常に先進的な技術を多く搭載していました。主な特徴は以下の通りです。

最初の暗号化電話の実例
最初の量子化された音声の伝送
最初のPCMによる音声の伝送
最初の非線形PCMの使用
最初のマルチレベルFSK（Frequency Shift Keying）の例
最初の実用的な音声帯域圧縮の実例
最初のフェージングがある無線環境でのFSK-FDM（Frequency Shift Keying-Frequency Division Multiplex）の使用
最初のマルチレベルアイパターンの利用
スペクトラム拡散技術の最初期の成功例

これらの特徴は、ベル研究所の優秀な研究者と技術者の協力によって実現しました。

関係者

SIGSALYの開発には、ベル研究所とウェスタン・エレクトリックの多くの研究者と技術者が参加しました。特に、ベル研究所の伝送研究グループの研究者たちが基本方式の決定に携わり、ハリー・ナイキストがアドバイザーとして参加しました。また、プロトタイプの設計と作成にはベル研究所の回路研究グループも加わり、実機の製造はウェスタン・エレクトリックが担当しました。

さらに、SIGSALYの暗号化方式の検証には、クロード・シャノンやアラン・チューリングといった著名な科学者も関与しました。

シャノン

クロード・シャノンは、1943年にバーナム暗号に関する論文を発表し、1945年にはベル研究所内で機密レポート「暗号の数学的理論」を発表しました。このレポートでは、情報理論の考え方を暗号に適用し、ワンタイムパッド方式の理論的基盤を確立しました。シャノンは、SIGSALYの研究を通じて情報理論と暗号理論の密接な関係を認識し、後の情報理論の発展に大きく貢献しました。

チューリング

アラン・チューリングは、第二次世界大戦中にイギリスの政府暗号学校で暗号解読の研究を行っていました。1942年にはアメリカを訪れ、SIGSALYに関する情報を得て分析を行いました。その後、SIGSALYの技術を参考に、より小型な無線式秘話装置「Delilah」の開発を開始しました。Delilahの開発は、チューリングが後にプログラム内蔵式コンピュータ（ACE）の設計を始めるきっかけとなりました。

開発の歴史

第二次世界大戦前、重要な音声通信には短波無線が使われていましたが、盗聴の危険性が問題視されていました。そこで、ベル研究所では1940年に秘話装置の開発が開始され、「プロジェクトX」としてSIGSALYの開発がスタートしました。この開発には、ベル研究所で開発されていた様々な技術が応用されました。

ボコーダー: 音声信号を分析・圧縮する技術。
バーナム暗号: デジタル信号の暗号化技術。
周波数分割多重化（FDM）: 複数回線を1本の回線で共用する技術。
周波数偏移変調（FSK）: デジタル信号を異なる周波数で表現する変調方式。

初期の実験では、ボコーダーからの出力を直接バーナム暗号で暗号化する試みがなされましたが、音質の悪さから実用化には至りませんでした。その後、ボコーダーのアナログ信号を量子化し、その結果に同じレベルで表現された暗号鍵（乱数列）を加える方式が考案されました。この方式の開発にはナイキストが深く関与しました。

1941年末には各サブシステムの仮設計と試験が行われ、1942年8月にはプロトタイプが完成しました。試験の結果に満足したアメリカ陸軍は、1943年にSIGSALYの導入を決定しました。1943年7月15日には、ペンタゴンとロンドン間の会議でSIGSALYの公式運用が開始されました。

SIGSALYの大型化と運用上の困難さから、小型化を目指した「ジュニアXシステム」の開発も進められました。これはAN/GSQ-3の名称で呼ばれ、1946年3月に完成しましたが、戦争終結のため実戦投入はされませんでした。

運用

SIGSALYは全部で12台製造され、ロンドン、ワシントンD.C.、北アフリカ、パリ、ハワイ、グアム、オーストラリア、マニラ、ベルリン、フランクフルト、東京などに設置されました。ロンドンでは、セルフリッジデパートの地下に、ワシントンではペンタゴンに設置されました。

暗号鍵となる乱数はレコードに記録され、厳重な管理体制の下で配布されました。レコードは、真空管の自然雑音から作成された乱数を録音したもので、使用後に破棄されました。

SIGSALYのメンテナンスは、専門部隊である第805通信役務中隊が担当しました。この部隊は、世界各地に配備された支隊により、24時間体制で任務を行いました。

原理

SIGSALYは、音声分析・圧縮を行うボコーダー、暗号化回路、暗号鍵生成サブシステム、変調回路、送受信サブシステム、タイミングサブシステムで構成されています。

全体の処理の流れは以下の通りです。

1. ボコーダーで音声を分析・圧縮し、12チャネルのアナログ信号に変換。
2. 各チャネルの信号を20ms周期でサンプリングし、6段階に非線形量子化。
3. 乱数レコードから取り出した暗号鍵データも20ms周期でサンプリングし、6段階量子化。
4. 量子化された信号と暗号鍵を加算し、暗号化。
5. 暗号化された信号をFSK-FDM変調し、無線送信。
6. 受信側では、上記処理を逆に行い、音声を再合成。

ボコーダー

ボコーダーは、音声の周波数スペクトルを分析し、音声の特性をパラメータ化して圧縮する技術です。SIGSALYでは、12チャネルのバンドパスフィルタを使用し、音声の周波数スペクトルを分析しました。受信側では、分析結果に基づいて音声を再合成しました。当時のボコーダーの音質は機械的で、必ずしも自然ではありませんでした。

量子化と暗号化

ボコーダーからの12チャネルのアナログ信号は、20ms周期でサンプリングされ、6段階に量子化されました。量子化には、非線形量子化が用いられ、サイラトロンという電子管が使用されました。暗号鍵となる信号も同様に量子化され、モジュラー計算を用いた加算により暗号化が行われました。

暗号鍵

暗号鍵は、水銀蒸気整流管が発生する雑音をサンプリングして作成されました。この乱数はレコードに記録され、高精度のターンテーブルで再生されました。送信側と受信側は、ターンテーブルの回転を厳密に同期させる必要がありました。この同期には、周波数標準からのクロックが使用されました。

変調

暗号化された信号は、FSKとFDMを組み合わせた方式で変調されました。この方式は、多値パルス信号の知識が不足していた当時としては、優れた方法でした。アイパターンを用いた測定方法が、この変調方式の最適化に貢献しました。

SIGSALY以降

SIGSALYは、運用コストや手間が大きかったため、第二次世界大戦終結後に使用されなくなりました。しかし、音声暗号化のニーズは高く、その後、KO-6、KY-9、HY-2などの暗号化装置が開発されました。これらの装置は、SIGSALYの技術を応用し、小型化・高性能化が進められました。

その後、デジタル信号処理技術が進歩し、より効率的な音声符号化技術や暗号化技術が開発されました。現在では、STU-IIIやSTEなど、多くの音声暗号化装置が使用されています。

脚注

参考文献
M. D. Fagen (ed). A History of engineering and science in the Bell System: National Service in War and Peace (1925 - 1975), Bell Telephone Laboratories, pp.296-317, 1978. ISBN 978-0932764003.
Randall K. Nichols, Panos C. Lekkas. Wireless Security: Models, Threats, and Solution, McGraw-Hill Professional, 2001. ISBN 978-0071380386.
Marvin K. Simon, Jim K. Omura, Robert A. Scholtz, Barry K. Levitt. Spread Spectrum Communications Handbook, McGraw-Hill Professional, 2001. ISBN 978-0071382151.
Christopher H. Sterling (ed). Military Communications: From Ancient Times to the 21st Century, ABC-CLIO, 2007. ISBN 978-1851097326.
J. V. Boone and R. R. Peterson (2000年). “The Start of the Digital Revolution: SIGSALY - Secure Digital Voice Communications in WWII”. National Security Agency Central Security Service. 2011年2月14日閲覧。
P. Weadon (2000年). “Sigsaly Story”. National Security Agency Central Security Service. 2011年2月14日閲覧。
関連項目
秘話
暗号
音声符号化
軍事通信
セキュア通信
バーナム暗号
ワンタイムパッド
A-3 (秘話装置)
外部リンク
The SIGSALY story NSAのSIGSALY資料（英語）
The start of the digital revolution NSAのSIGSALY資料（英語）
Ralph Miller 元ベル研究所メンバーのProject Xについての各種資料（英語）
The Transatlantic Telephone Room ロンドンのチャーチル博物館（元の戦時執務室）の大西洋間電話室の説明（英語）

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