ゲンセンカン主人

つげ義春が1968年に発表した短編漫画『ゲンセンカン主人』は、『ねじ式』と並ぶ代表作の一つです。この作品は、つげが湯宿温泉での体験を基に構想され、後に石井輝男監督によって映画化もされました。

作品の特徴

『ねじ式』が夢の世界を描いているのに対し、『ゲンセンカン主人』は仏教的なモチーフを前面に押し出した、幻想的な作品です。全体的に暗い色調で統一されており、日本的な物語でありながら、エドガー・アラン・ポーの影響も感じさせる不思議な雰囲気が特徴です。

主人公は、つげ自身の自画像に近い姿で描かれていますが、コマによって左右非対称になったり、表情が変化したりと、不安定な印象を与えます。この変化は、作品のテーマである自己否定の不安感を際立たせる効果をもたらしています。また、この主人公の人物像は、後の作品にも引き継がれています。

つげは1967年頃、水木プロの仕事を手伝っていた際に腱鞘炎を患い、その療養のために東北を旅行しました。この経験から、旅と湯治場に強く惹かれるようになり、1968年2月に訪れた群馬県の湯宿温泉での体験が、本作の着想に繋がりました。特に湯宿温泉の存在を教えた高野慎三は、その侘びしい情景が「つげ義春の世界」そのものだと感じ、つげを誘ったとされています。つげ自身も、その貧しげな雰囲気に心惹かれ、「大滝屋」に宿泊した際に「陰々滅滅とした気持ち」になったと述懐しています。この体験が、『ゲンセンカン主人』の原点となりました。

作品の表現は、初出時と後に変化しており、特にヒロインである女将さんの障害を指す台詞は、差別的であると判断され、後の出版では書き改められました。

『ねじ式』と同様に、この作品も多くの表現者によって引用・パロディ化されています。また、コマいっぱいに台詞を描く手法は、後のギャグ漫画家にも影響を与えました。特に、女将が発する言葉が「ギョホギョホ」「グフグフ」など、会話として成立しない点が、作品の特異性を際立たせ、後の作家たちに大きな影響を与えたとされています。

あらすじ

主人公は温泉地を訪れ、駄菓子屋でゲンセンカンという旅館の主人について聞かされます。その主人は主人公と瓜二つであり、かつて主人公と同じように駄菓子屋を訪ね、ゲンセンカンに宿泊した際、女将と関係を持ち、そのままゲンセンカンの主人になったという話です。それを聞いた主人公は、自身もゲンセンカンに泊まろうとしますが、駄菓子屋の店主や周囲の老婆たちはそれを止めようとします。しかし、主人公は構わずゲンセンカンに向かい、そこで主人と対峙します。二人の対峙が何かを引き起こすことを予感させながら、物語は終わります。

舞台

作品の舞台は、つげが実際に訪れた湯宿温泉がモデルとなっています。この温泉地は、ひなびた宿場町で、複数の共同浴場があるのが特徴です。タイトルの「ゲンセンカン」は、「源泉館」を意味していると考えられます。

つげは、湯宿温泉での体験を通じて、孤独の境地を味わい、世捨て人になりたいと願ったといいます。しかし、現在では、当時つげが宿泊した旅館や共同浴場は新しく建て替えられており、当時の面影を求めるのは難しくなっています。

大滝屋旅館

つげが宿泊した「大滝屋旅館」は、現在では近代的な温泉旅館に建て替えられています。しかし、今も湯治場としての機能は残しており、比較的低価格で宿泊や日帰り入浴が可能です。

横山博による分析

ユング派の横山博は、『ゲンセンカン主人』を分析し、つげの赤面恐怖症を統合失調症の前駆症状と捉え、つげが幼少期に「基本的信頼」や「基底欠損」を経験したため、母親原型に守られた形で成長できなかったと指摘しています。また、つげの作品に描かれる辺鄙な温泉場は、彼が共同体から「母なるもの」を体験しようとする願望の表れであると分析しています。

裏話

つげは、『ゲンセンカン主人』を制作中、常に別の物語が並行して存在していたと語っています。その物語は、「お面をかぶった村男たちが踊り、それを少女が眺めている」というものでしたが、技量不足のため作品化できなかったそうです。この作品を発表した後、つげは長い断筆期間に入っています。

映画化作品

1993年には、石井輝男監督によって『つげ義春ワールドゲンセンカン主人』として映画化されました。佐野史郎がつげをモデルにした津部役で主演し、『李さん一家』『紅い花』『池袋百点会』も併せて映像化されたオムニバス映画です。つげ義春夫婦も特別出演しています。

この映画では、今神温泉をイメージした、幟が立ち並び、ロウソクの燈るほの暗い浴場が印象的に描かれています。また、「捨てたはずのわたしが、今夜わたしをたずねてくるのです」というキャッチコピーも話題となりました。

映画のロケは、伊豆を中心に行われました。

作品構成

映画『つげ義春ワールドゲンセンカン主人』は、以下の4話で構成されています。

1. 李さん一家
2. 紅い花
3. ゲンセンカン主人
4. 池袋百点会

受賞

石井輝男監督は、この作品で第15回ヨコハマ映画祭特別大賞を受賞しました。

参考文献

つげ義春、石井輝男『つげ義春ワールドゲンセンカン主人』ワイズ出版、1993年。
高野慎三『つげ義春を旅する』筑摩書房、2001年。

ゲンセンカン主人