ジャン・ピアース

ジャン・ピアース（1904年 6月3日 - 1984年 12月15日）は、アメリカ合衆国が生んだ偉大なテノール歌手です。キャリアのスタートは遅かったものの、その類まれな才能は巨匠アルトゥーロ・トスカニーニに認められ、彼の「お気に入り」として半世紀にわたる輝かしいキャリアを築きました。メトロポリタン歌劇場（メト）での27年間に及ぶ活動を中心に世界的に活躍し、オペラからブロードウェイまで幅広い分野で成功を収めました。ニューヨークで生まれ育ち、活動の拠点とし、その生涯を終えた彼は、まさに生粋の「ニューヨークっ子」歌手として知られています。

生い立ちと音楽への道

本名ジェイコブ・ピンカス・ペレルムースとして、ピアースは1904年にニューヨークに生まれました。両親は現在のベラルーシにあたるロシア帝国領から移住したユダヤ系移民でした。経済的に恵まれない家庭でしたが、母親は息子の音楽的才能を見抜き、当初ピアノを考えたものの、より手頃なヴァイオリンを与えました。幼いジェイコブはヴァイオリンだけでなく歌唱にも優れた才能を示し、シナゴーグの聖歌隊員としても周囲からその美声を称賛されました。しかし、母親は音楽家として生計を立てることを望まず、彼には医師になることを勧めたため、ジェイコブ自身もその意向を受け入れ、デウィット・クリントン高校を経てコロンビア大学に進学します。

大学生活の中で、ジェイコブは得意なヴァイオリンを活かしてダンスバンドを結成し、学内イベントなどで演奏して収入を得るようになります。この音楽活動に深く傾倒するにつれて、学業への関心は薄れていきました。やがて、彼は音楽の道を追求することを決意し、コロンビア大学を中退します。この大学時代、彼は幼馴染のアリス・カルマノヴィッツと1928年に密かに結婚しました。将来が不安定であるという理由から当初両親の反対を受けましたが、結局は認められ、翌年には正式な挙式を挙げることができました。1930年には長男ローレンスが誕生。後に映画監督となるラリー・ピアースその人です。

キャリアの始まりとトスカニーニとの出会い

大学時代のバンド活動で「ピンキー・パール」「ジャック・パール」といった芸名でヴァイオリンと歌唱を披露していたジェイコブは、興行師サミュエル・ロキシー・ロサフェルの目に留まりました。ロサフェルは彼をヴァイオリニストとして契約しましたが、その歌声を聞いてすぐに歌手として売り出すことを決めます。彼はジェイコブに「ジョン・ピアース」という芸名を与え、外見上の不安を払拭するため「世界で最もハンサムな男」というキャッチフレーズと共にデビューさせました。その後、ロサフェルと相談の上、「ジャン・ピアース」と改名し、本格的な歌手としてのキャリアをスタートさせます。声楽の基礎はジュゼッペ・ボゲッティのもとで学びました。

彼のキャリアに転機が訪れたのは1938年です。前年から活動を開始していたアルトゥーロ・トスカニーニ指揮NBC交響楽団の演奏会に参加する機会を得ました。オーディションではドニゼッティの『愛の妙薬』より「人知れぬ涙」を歌い、伴奏のトスカニーニとの初対面を果たしました。このオーディションに合格したピアースは、ベートーヴェンの交響曲第9番（第九）のソリストとして共演。以降、トスカニーニはピアースを高く評価し、1957年に彼が亡くなるまで、ピアースは最も信頼されるテノール歌手の一人であり続けました。

メトロポリタン歌劇場での活躍

トスカニーニとの共演を重ねる一方、ピアースはオペラ歌手としてのキャリアも模索していました。彼のオペラ経験不足が課題でしたが、妻アリスの尽力によりフィラデルフィア・スカラ・オペラ・カンパニーとの契約が実現。1938年にヴェルディの『リゴレット』マントヴァ公爵役でオペラ・デビューを飾りました。フィラデルフィアで研鑽を積んだ後、1941年にはついにメトロポリタン歌劇場と契約を結び、同年11月29日に『椿姫』のアルフレード役でメト・デビューを果たします。批評家から絶賛された彼は、以降1968年までの27年間、メトの主要テノールとして337公演に出演しました。『トスカ』のカヴァラドッシ、『ラ・ボエーム』のロドルフォ、『カルメン』のドン・ホセといった幅広いレパートリーを歌いましたが、『アイーダ』のラダメスのような重厚な役柄は、自身の声質を考慮し、トスカニーニが望んだにもかかわらず、敢えてレパートリーに加えることを避けました。

世界への広がりと新たな挑戦

第二次世界大戦後、ピアースの活動はアメリカ国内に留まらず、世界へと広がりました。世界ツアーを敢行し、特に冷戦中の1956年には、アメリカ人歌手として戦後初めてボリショイ劇場に出演するという歴史的な出来事を成し遂げました。また、1958年には日本の大阪国際芸術祭にも招聘され、来日公演を行っています。さらに、テレビ番組『エド・サリヴァン・ショー』などに出演し、メディアへの露出も増やしていきました。

晩年、ブロードウェイ、そして引退

1968年にメトとの専属契約を終えた後、ピアースは1971年にブロードウェイの舞台に進出しました。特にミュージカル『屋根の上のバイオリン弾き』のテヴィエ役では好評を博しました。ブロードウェイでの活躍は長くはありませんでしたが、新たな分野への挑戦は続きました。1976年には自身の自伝『幸せの青い鳥』を出版し、100万部を超えるベストセラーとなりました。これに伴い、テレビの深夜トーク番組にも頻繁にゲスト出演するなど、幅広い層にその存在を知らしめました。1982年5月2日、78歳で迎えたベス・アブラハム・ユース合唱団のコンサートへのゲスト出演を最後に、現役から引退しました。この時も、声は全盛期と変わらなかったと伝えられています。引退後は体調を崩し、1984年 12月15日にニューヨーク州ニューロシェルの施設で80年の生涯を閉じました。彼の功績はハリウッド・ウォーク・オブ・フェームに刻まれた星として称えられています。

芸術スタイルと録音遺産

ジャン・ピアースは、音楽への忠実さや、コンサートホールを満員にできる人気で、エンリコ・カルーソーやルチアーノ・パヴァロッティといった巨匠たちと並び称されるテノール歌手です。ニューヨーク・フィルハーモニックの「スタジアム・コンサート」の常連でもあり、義兄弟のリチャード・タッカーらと共に数々の演奏会を彩りました。特にトスカニーニとの関係は彼の芸術を語る上で欠かせません。NBC交響楽団との共演は多岐にわたり、トスカニーニがNBC響と行ったオペラ全曲演奏7回のうち、半数以上の4回で主役テノールとして起用されています。これらの録音は今日でも彼の代表的な業績の一つとされています。

特筆すべき録音として、1943年から1944年にかけて行われたヴェルディのカンタータ『諸国民の賛歌』の演奏が挙げられます。特に、戦時中にアメリカ戦争情報局（OWI）の要請で制作された映画用録音では、歌詞の一部が改変されるというエピソードも残されています。トスカニーニはピアースの声について「非常に美しい声」と評し、「25年もたてば、『ピアースを聴くべきだった！』と言うようになる」とその将来性を予見していました。

トスカニーニ以外にも、ピアースは多くの指揮者と共演し、主要なオペラ全曲録音を残しています。RCAには『リゴレット』『カルメン』『ランメルモールのルチア』などを、ヨーロッパではリヒャルト・シュトラウスの『ナクソス島のアリアドネ』や、ハンス・クナッパーツブッシュ指揮のベートーヴェン『フィデリオ』などを録音しました。特に1962年のヘルマン・シェルヘン指揮によるベートーヴェン『オリーヴ山上のキリスト』は、この作品の世界初録音として歴史に名を刻んでいます。また、1945年にリリースされた自身の持ち歌『幸せの青い鳥』は、オペラ歌手によるレコードとしては、カルーソーの記録に次ぐ売上を長く維持しました。

ジャン・ピアースは、その多様な才能と魅力的な人柄、そして何よりも素晴らしい歌声で、20世紀の音楽界に確固たる地位を築いたテノール歌手です。

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