ピアノソナタ第29番 (ベートーヴェン)

ピアノソナタ第29番 変ロ長調 作品106「ハンマークラヴィーア」

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンが作曲したピアノソナタ第29番は、変ロ長調で書かれた大規模な作品です。全10曲からなる4楽章構成のピアノソナタの最後を飾り、演奏時間も約40分から50分と長く、技術的にも高度な要求がされることから、ベートーヴェンのピアノソナタの中でも特に重要な位置を占めています。

概要

第28番のピアノソナタ完成後、ベートーヴェンは甥カールの親権問題など、音楽以外のトラブルに悩まされる日々を送っていました。しかし、この時期にも作曲への情熱は失われることなく、このソナタや「ミサ・ソレムニス」、「交響曲第9番」といった後期の傑作へと結実していきます。

作曲は1817年11月に開始され、1818年初頭には第2楽章までが完成。夏に後半楽章が形作られ、1819年3月には浄書を含めて完成しました。同年9月に出版され、ルドルフ大公に献呈されました。

「ハンマークラヴィーア」という通称は、ベートーヴェンが楽譜出版社への手紙の中で、この作品を「ハンマークラヴィーアのための大ソナタ」と表記するように指示したことに由来します。しかし、実際にはこの曲だけが「ハンマークラヴィーア」と呼ばれるようになりました。なお、自筆譜は散逸しており、初版やスケッチを基に研究が進められています。

演奏時間

演奏時間は約38分から50分程度です。原典版のメトロノーム記号を厳守した演奏は、ヴァルター・ギーゼキングやユルク・ヴィッテンバッハによって行われています。イシュトヴァーン・アンタルの演奏は38分、マリヤ・ユーディナは繰り返しありで40分を切っており、マウリツィオ・ポリーニの2021年の再録音は38分13秒でした。

楽曲構成

第1楽章: Allegro 2/2拍子 変ロ長調

ソナタ形式で、ベートーヴェン自身がメトロノーム記号を書き入れた唯一のピアノソナタです。指定された速度は非常に速く、エトヴィン・フィッシャーは誤った指示であると指摘しています。

曲は序奏なしに第1主題から始まり、壮大で力強い前段と、対照的な穏やかさを持つ後段から構成されます。アンドラーシュ・シフは、3度音程とその拡大である10度音程が、曲全体の構成原理であると指摘しています。

第1主題の展開後、滑らかな経過句を経てト長調の第2主題が現れます。結尾句は規模が大きく、中でもカンタービレで演奏されるフレーズは、その後の展開で重要な役割を果たします。提示部の反復後、展開部は第1主題による4声のフーガとなり、大きく盛り上がります。再現部では第1主題、第2主題ともに変ロ長調で再現され、結尾が拡大された後、コーダへ移行。コーダはダイナミックな変化を伴いながら進み、強奏で楽章を終えます。

第2楽章: Assai vivace 3/4拍子 変ロ長調

三部形式で、ベートーヴェンがピアノソナタのために書いた最後のスケルツォ楽章です。冒頭の主題は1オクターブ上で反復され、さらに展開されます。中間部は英雄交響曲の冒頭主題を思わせる主題がカノン風に扱われます。中間部の後には、2/4拍子に転じてプレストとなり、プレスティッシモによるスケールを経て、3/4拍子に戻り冒頭主題が再現されます。最後は弱音で静かに楽章を終えます。

第3楽章: Adagio sostenuto 6/8拍子 嬰ヘ短調

ソナタ形式で、深い内容を持つ大規模な緩徐楽章です。冒頭の1小節は、作曲後に追加されたものであり、メトロノーム記号もこの時指定されました。印象的な高音部のエピソードを繰り返し、弱音ペダルを外して経過句に移行します。第2主題はまずニ長調で提示され、声部を交錯させながら歌われます。第2主題が発展してクライマックスを迎えた後、展開部に入り、第1主題が扱われます。再現部では第2主題は嬰ヘ長調で再現され、静まった後、コーダに入ります。コーダでは第2主題が展開され、最終的には安らぎのうちに楽章を終えます。

第4楽章: Largo 4/4拍子 - Allegro risoluto 3/4拍子 変ロ長調

幻想曲風の序奏に続き、フーガが展開される終楽章です。序奏部は、ラルゴの楽想、スケール的な動き、アレグロの活発な動きが組み合わされています。フーガの主題は決然とした印象で、3声のフーガとして展開されます。その後も複数のフーガが展開され、様々な技法が用いられています。

フーガは複雑な展開をみせ、主題の拡大形や逆行形なども登場します。終盤には新しい主題が現れ、この主題とフーガの主題を組み合わせた二重フーガとなります。最終的には、低音部のトリルを伴いながら楽章中の素材が回想され、最後は和音の強打で全曲を終えます。

逸話

この曲は、高度な技術と表現力を要求する難曲として知られ、出版当時は演奏が非常に困難でした。ベートーヴェン自身も「私の死後50年を経ても演奏は至難だろう」と語ったとされています。しかし実際には、クララ・シューマンやフランツ・リストによってレパートリー化され、広く演奏されるようになりました。ブラームスは自身のピアノソナタの中で、この曲の第1楽章と酷似した開始部分を用いています。

ベートーヴェンは、第3楽章の冒頭に2つの音符を追加するように指示する手紙を弟子のフェルディナント・リースに送りました。リースは当初、この指示に驚きましたが、後にその効果に感銘を受けたと回想しています。

フェリックス・ワインガルトナーは管弦楽編曲を行い、グレン・グールドは第4楽章に右手と左手が鏡像になるパッセージがあると指摘しました。また、スヴャトスラフ・リヒテルの演奏を元に、マイケル・フィニスィーが「ハンマークラヴィーア」を作曲しています。

曲とピアノの発達

この曲の成立には、当時のベートーヴェンが所有していた2つのピアノが深く関係しています。第1楽章から第3楽章はシュトライヒャー、第4楽章はブロードウッドで作曲されたと考えられており、それぞれのピアノの音域が反映されています。第4楽章には、ブロードウッドの最低音よりも低い音を示唆する箇所さえあります。

ベートーヴェンの時代は、ピアノの改良が盛んであり、全楽章を一台で演奏できるピアノの登場を予測していたと考えられます。また、作曲当時は自身以外にこの曲を演奏できる人間がいなかったため、演奏環境にこだわらなかったとも考えられます。

第3楽章に関しては、ブロードウッドのために書かれたという説もありますが、高音域の音符が存在するため、その説は疑わしいとされています。しかし、第3楽章の作曲途中にブロードウッドを入手した影響で、低音域が使用されるようになった可能性も指摘されています。

ベートーヴェンのピアノソナタでは、作曲当時のピアノでは演奏不可能だった音域を、校訂者が補強する例がありましたが、近年の原典版では、ベートーヴェンの意思を尊重してカットされています。また、第4楽章以降に作曲されたベートーヴェンのピアノ曲は、基本的にブロードウッドを想定して書かれています。

関連項目

ヘマークラフィーア - モーリッツ・エッゲルトのピアノ連作

参考文献

大木, 正興『最新名曲解説全集 第14巻 独奏曲I』音楽之友社、1980年。
CD解説 NAXOS, BEETHOVEN, L. van: Piano Sonatas Nos. 8 and 29 (Biret Archive Edition, Vol. 8), 8.571283
楽譜 Beethoven: Piano Sonata No.29, Breitkopf & Härtel, Leiptig

外部リンク

ピアノソナタ第29番の楽譜 - 国際楽譜ライブラリープロジェクト)
Part 1 and part 2 of a lecture by András Schiff on Beethoven's piano sonata op. 106, The Guardian
The William and Gayle Cook Music Library at the Indiana University School of Music has posted the score for the sonata.
For a public domain recording of this sonata, visit Musopen
32のピアノソナタに関するアルフレート・ブレンデルの考察 （英語）
ピアノソナタ第29番 - ピティナ・ピアノ曲事典
* ピアノソナタ第29番 - オールミュージック

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