ヴァイオリン協奏曲 (シューマン)

ロベルト・シューマン：ヴァイオリン協奏曲 ニ短調（遺作）

本作は、ロマン派音楽の大家ロベルト・シューマンがその晩年に作曲したヴァイオリン協奏曲である。他の傑作群とは異なり、作曲後およそ80年もの長きにわたり公の場で演奏されることなく、文字通り「遺作」として忘れ去られていた時期があった。しかし、その内に秘められた先進的な和声や構成は、後の時代の音楽を予見させる先見性を持ち、21世紀に入ってその真価が再認識されるようになり、多様な録音や演奏が行われるようになっている。

作曲の背景と楽譜の封印

この協奏曲は、高名なヴァイオリニスト、ヨーゼフ・ヨアヒムの依頼を受けて作曲されたもので、シューマン自身もヨアヒムが演奏するベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲を聴いて深い感銘を受け、筆を執ったとされる。作曲は1853年の9月下旬から10月上旬にかけて、わずか2週間ほどという驚異的な短期間で書き上げられた。

しかし、完成した楽譜は奇妙な運命をたどる。依頼主であるはずのヨアヒムは何らかの理由でこの曲を演奏しようとせず、自筆譜を封印してしまう。さらにシューマンの妻クララも、この楽譜を家族に「決して演奏してはならない」と強く言い聞かせたという。その背景には、シューマンが精神を病み、ライン川への投身未遂を起こす直前に書き上げたピアノ曲『天使の主題による変奏曲』（これも遺作として出版される）と、このヴァイオリン協奏曲の第2楽章の主題が酷似していたことがあるとされる。シューマン自身、この主題について「夢の中で天使から授けられたものだ」と語っていたと伝えられており、家族はシューマンの精神状態とこの曲を結びつけ、演奏をためらったと考えられている。

発見と波乱の初演

シューマンの死後、この協奏曲は演奏されることなく、長らく忘れ去られた存在となっていた。しかし、1937年、ヨアヒムの蔵書の中からベルリンの図書館で自筆譜が偶然発見される。

その発見は、当時のナチス・ドイツ宣伝省の強い関心を引き、ドイツの文化的な栄光を示すプロパガンダとして利用されることとなる。世界初演は、発見からわずか数ヶ月後の1937年11月26日、ベルリンで行われた。独奏はゲオルク・クーレンカンプ、指揮はカール・ベーム、演奏はベルリン・フィルハーモニー管弦楽団という豪華な顔ぶれで、その模様は短波放送で全世界に中継された。

しかし、この初演は物議を醸すこととなる。独奏者のクーレンカンプが「自筆譜のままでは演奏不可能」と判断し、楽譜を大幅に改変した版を用いたからである。実際に演奏困難な箇所は存在するものの、クーレンカンプの改変は単なる修正にとどまらない広範囲に及んだ。作曲家パウル・ヒンデミットもこの改変に関与したとされる（ノルベルト・ホルニックの証言による）。この初演のあり方に対しては批判もあり、後にこの曲のアメリカ初演を行ったヴァイオリニスト、ユーディ・メニューインは「自分が真の初演者である」と主張するほどであった。

初録音は、初演と同じ年の12月20日にベルリンで行われた。当時のレコード会社の専属契約という事情から、初演で指揮したベームを起用できず、テレフンケン社の専属指揮者ハンス・シュミット＝イッセルシュテットが起用された。この歴史的な録音は現在もCDとして入手可能である。

日本での初演は、1938年12月14日、新交響楽団（現在のNHK交響楽団）の定期公演で行われ、ヴァイオリンをウィリー・フライ、指揮をヨーゼフ・ローゼンシュトックが務めた。

楽曲について

この協奏曲は、ロマン派のヴァイオリン協奏曲としては比較的珍しいニ短調で書かれている。

楽器編成: 独奏ヴァイオリン、フルート2、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、ホルン2、トランペット2、ティンパニ、弦楽5部。
演奏時間: 標準的な演奏時間は約32分だが、特に終楽章は作曲者の指定より速いテンポで演奏されることが多い。
楽章構成:
第1楽章：In kraftigem nicht zu schnellem tempo（力強く、速過ぎないテンポで）
ニ短調、2分の2拍子。協奏風ソナタ形式で書かれている。複付点音符を多用した主題は、フランス風序曲を思わせる威厳と推進力を持つ。シューマンが晩年に深く研究したバッハの影響が随所に感じられる。ヘ長調で現れる第2主題の動機は、楽章全体、さらにこの協奏曲の全楽章を通して用いられる重要な要素となっている。
第2楽章：Langsam（ゆっくりと）
変ロ長調、4分の4拍子。シンコペーションが特徴的な、シューマンらしい抒情的な主題で始まる。短い間奏曲的な性格を持つ楽章で、前述の通り、シューマンが「天使から教えられた」と語った主題が用いられている。この主題は後に彼のピアノ曲『天使の主題による変奏曲』でも中心となる。楽章は切れ目なく次の第3楽章へと続く。
第3楽章：Lebhaft doch nicht schnell（生き生きと、しかし速くなく）
ニ長調、8分の6拍子。ロンド形式。ポロネーズを思わせるリズミカルで活気のある音楽で、終始推進力に満ちている。独奏ヴァイオリンの技巧が存分に発揮される華やかな楽章である。

現代における評価

歴史的な経緯から長らく演奏機会が少なかった本作だが、20世紀後半以降、特に21世紀に入ってからは、その音楽的な価値が再認識され、多くのヴァイオリニストによって録音が行われている。先進的な和声や、全体を関連付ける動機操作など、シューマンの晩年期の創造性を示す重要な作品として、その存在感を高めている。しかし、シューマンの他の協奏曲（例えばピアノ協奏曲やチェロ協奏曲）と比較すると、依然として演奏会で取り上げられる機会は限られているのが現状である。

外部リンク

ヴァイオリン協奏曲の楽譜 - 国際楽譜ライブラリープロジェクト)

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