五私鉄疑獄事件

五私鉄疑獄事件



この事件は、昭和初期の日本で鉄道行政を巡って発生した大規模な汚職事件である。当時の鉄道大臣であった小川平吉が、特定の私鉄事業者五社に対し、鉄道路線の免許交付や国有化といった面で便宜を図る見返りに、多額の賄賂を受け取ったとされる疑惑に端を発する。

結果として、小川は大臣を辞任し実刑判決を受けて下獄した他、贈賄側とされる複数の私鉄経営者や、金銭授受を仲介した人物らも逮捕・起訴され、有罪判決が確定した。この事件は、当時の政党政治に対する国民の不信感を一層募らせる契機となった。

疑惑の対象となった五社



事件に関与したとされた五つの私鉄事業者および、それぞれの疑惑内容は以下の通りである。

北海道鉄道: 現在のJR千歳線にあたる路線を開業していた同社は、開業以来の営業不振から政府への国有化を強く要望していた。同社社長の犬上慶五郎らが、代議士の青山憲三を介して小川大臣に働きかけた。国有化案は一度は閣議決定されるものの衆議院解散で廃案となるが、再度の閣議決定を経て買収のための法案が提出される過程で、元代議士の春日俊文を通じて合計20万円の裏金が要求され、授受された疑惑が持たれた。
伊勢電気鉄道: 現在の近鉄名古屋線の一部を建設した同社は、桑名から名古屋方面への延伸免許を申請。社長の熊沢一衛らは、自社取締役を兼務する代議士の伊坂秀五郎に政界工作を依頼した。伊坂と小川の側近とされる春日俊文との間で交渉が進められ、1928年11月に免許が交付された見返りとして、熊沢から春日へ12万円が支払われたとされる疑惑である。
東大阪電気鉄道: 大阪と奈良を結ぶ鉄道計画を進めていた同社は、過去に二度も申請が却下されていた。発起人の田中元七らが白井勘助を仲介として小川大臣に接触し、15万円を謝礼として免許交付を約束させた。鉄道官僚からの反対意見もあったが、小川はこれを押し切り、1929年6月に免許を交付。この直前に謝礼金が授受された不正行為が疑われた。
奈良電気鉄道: 現在の近鉄京都線を敷設した同社は、大阪への延伸免許を申請するにあたり、専務の長田桃蔵らが会長の井出繁三郎(代議士)を通じて中央政界に働きかけた。長田と井出が小川に面会して5万円を提示したが、小川は受け取りを拒否したとされる。その後、同社は東大阪電気鉄道を取り込む動きを見せるが、東大阪への免許交付と同時に奈良電の大阪延伸免許も交付される。同社は取得した権利を他社に売却する際に、売却益の一部である90万円を長田ら幹部が横領したという別の疑惑も浮上した。
* 博多湾鉄道汽船: 現在の西鉄貝塚線やJR香椎線に関わる路線を運営していた同社は、香椎線の鉄道省への売却を申請。社長の太田清蔵(貴族院議員)が、政友会幹部の富安保太郎を介し小川大臣に働きかけた結果、買収案が閣議決定された。その見返りとして、太田から富安を通じて小川へ9.5万円が渡されたことが収賄の疑惑として問題視された。

捜査と裁判



事件が表面化したのは、政友会の田中義一内閣が倒れ、民政党の浜口雄幸内閣が発足した後の1929年夏頃である。小川の後任である江木翼鉄道大臣が捜査を主導したとも言われる。同年秋には、小川前大臣をはじめ、伊勢電気鉄道の熊沢や奈良電気鉄道の長田といった私鉄関係者らが贈収賄の容疑で逮捕された。捜査の波は政党関係者や財界の大物にも及んだ。

1930年11月に始まった公判で、弁護側は本件を民政党による政友会への政治的弾圧であると主張した。裁判の大きな争点は、小川が直接金銭を受け取っておらず、非公務員である春日俊文や白井勘助を介していた点から、小川の収賄罪が成立するか否かであった。

1933年4月の一審、東京地方裁判所は私鉄関係者に無罪判決を下した。しかしこの判決は世論の強い批判を浴び、検察側は控訴に踏み切る。翌1934年11月の東京控訴院(現・東京高裁)判決では、一転して収賄側である小川、春日、白井と、贈賄側の一部関係者(博多湾の太田、伊勢電の熊沢と伊坂、奈良電の長田と吉川)に有罪判決が下された。被告側はこれを不服として大審院(現・最高裁)へ上告したものの、1936年9月の大審院判決により上告は棄却され、計8名の有罪が確定。小川平吉は懲役2年の実刑と追徴金19万2000円の判決を受けた。

事件が与えた影響



この事件は多方面に深刻な影響をもたらした。小川は政治家としての道を閉ざされ、失脚した。北海道鉄道博多湾鉄道汽船が申請していた鉄道省への路線売却計画は撤回され、両社は新規事業の凍結を余儀なくされた。伊勢電気鉄道は熊沢社長を失った上、経済状況の悪化も重なり経営不振に陥り、最終的に参宮急行電鉄(大阪電気軌道系)に吸収合併された。東大阪電気鉄道奈良電気鉄道は、免許を得ながらも結局路線の建設に進むことができず、後に免許を失効させた。また、これらの私鉄との裏工作に関与したとされる京阪電気鉄道も、多額の負債を抱え事業再編に苦心することとなった。

さらに、政界と財界の醜聞が白日の下に晒された本事件は、当時の政党政治に対する国民の信頼を大きく損なわせる結果となった。この不信感が、後の五・一五事件など、政権が軍部の影響下に移っていく流れの一つの遠因になったとも指摘されている。

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