井上郷子

日本の現代音楽界で特異な存在感を放つピアニスト、井上郷子（いのうえさとこ）は1958年 1月29日に神戸市で生を受けました。幼少期からピアノに親しみ、後に東京音楽大学教授であった岡田敦子氏に師事しました。兵庫県立神戸高等学校を卒業後、1977年に東京学芸大学作曲科へ進学。作曲と電子音楽を学び、1981年に卒業、さらに大学院作曲科で研鑽を積みました。作曲家・甲斐説宗氏の最後の弟子として、音楽家としての生き方や創作への向き合い方を深く学んだと語っています。1983年に大学院修士課程を修了。その際の修士論文「ジョン・ケージの初期ピアノ作品の作曲論的研究」は、彼女の後の活動における現代音楽への深い関心を示すものでした。

今日、井上郷子氏の活動は、特に作曲家・近藤譲氏のピアノ作品の演奏において広く知られています。彼女は近藤氏の全ピアノ作品の演奏に取り組むほか、同時代の国内外の作品の演奏、啓蒙、普及活動にも精力的に取り組み、高い評価を得ています。

活動遍歴

大学院在学中より、同世代の作曲家たちの新作初演に積極的に関わりました。また、日本現代音楽協会や作曲家協議会などが主催するコンサートにも出演し、キャリアをスタートさせます。1986年からは、近藤譲氏が主宰する室内オーケストラ「ムジカ・プラクティカ・アンサンブル」のピアニストとして活躍し、演奏家としての経験を深めました。

1991年にアンサンブルが解散すると、彼女はソロ活動に重心を移します。「Satoko Plays Japan」と題した自身企画のリサイタルシリーズを東京で毎年開催。このシリーズでは、現代日本作曲家によるピアノ作品に焦点を当て、多くの委嘱作品を含む新作の初演や紹介を行いました。2000年の第10回まで、このタイトルで28人の作曲家による71曲を演奏。委嘱作品を手掛けた作曲家には、近藤譲氏、一柳慧氏、松平頼暁氏らが名を連ねています。

2001年からはレパートリーを海外作品にも広げ、病気による中止の年を除き、毎年自主リサイタルを開催し続けています。2001年から2023年までのリサイタルで演奏された楽曲は159曲に及び、その中には近藤譲氏、伊藤祐二氏、藤井喬梓氏、鈴木治行氏、ドイナ・ロタル氏、デヴィッド・ローゼンブーム氏、リンダ・カトリン・スミス氏ら15人の作曲家による38曲の委嘱作品が含まれています。シリーズ開始からの累計では、23人の作曲家による51曲が委嘱されています。

これらのリサイタル活動の中で、特定の作曲家に焦点を当てた企画も多数開催。近藤譲氏の個展を5回、塩見允枝子氏の個展を1回、「リュック・フェラーリのために」、「モートン・フェルドマン作品集」（2回）、「ジョン・ケージ第2期作品集」、「デヴィッド・ローゼンブーム作品集」、「リンダ・カトリン・スミスピアノ作品集」といった個性的なプログラムのリサイタルを行いました。2011年にはリサイタル20回目を記念し、「Satoko Plays Japan 20年の軌跡」として委嘱作品や近藤譲作品を集めた特別リサイタルも開催されています。

自主リサイタルに加え、カワイミュージックショップ青山（現・カワイ表参道）ではテーマ性を持たせたリサイタルを継続的に実施。ヘンリー・カウエル、ジャチント・シェルシ、ジョン・ケージといった、独自の音楽性を持つ作曲家に深く切り込むソロ・リサイタルも行っています。また、ヴァイオリン奏者の手島志保氏やクラリネット奏者のグィード・アルボネッリ氏とのデュオなど、室内楽の分野でも活動を展開しています。作曲家・伊藤祐二氏とは1995年から1999年にかけてコンサート企画の監修と演奏を共同で行い、全12回のシリーズを成功させました。2008年からは門仲天井ホールにて、自身が企画・演奏を手掛けるコンサートシリーズ「music documents」を年3回開催しています。

海外での活動も積極的に行っています。1999年には野村国際文化財団の助成を受け、ドイツやフランスでリサイタルを開催。国際交流基金の派遣助成により1999年から2005年にかけて世界各地で演奏活動を行いました。2006年には在トルコ日本大使館主催のリサイタルや、国立ミマル・シナン芸術大学・音楽院主催のリサイタルをトルコで開催。2010年には国際交流基金助成事業「2010年トルコにおける日本年」の認定行事として、トルコ各地を巡る演奏旅行を実施しました。2011年には在スイス日本大使館主催リサイタルや、musica apertaでの演奏、ニューヨークのサラ・ローレンス大学での新作初演など、欧米を中心に活動の場を広げています。ニューヨークでのソロ・リサイタルは「New York Concert Review」にて高く評価されました。

レパートリーと録音

井上郷子氏のレパートリーは非常に幅広く、近藤譲、武満徹、松平頼則といった日本の作曲家から、ジョン・ケージ、モートン・フェルドマン、ルチアーノ・ベリオ、リュック・フェラーリといった海外の重要な現代音楽作曲家まで多岐にわたります。

演奏スタイルは一般的にはオーソドックスと評されますが、武満徹の「雨の樹素描I」において作曲家が指定したテンポより大幅に遅く演奏するなど、作品に対する彼女独自の深い解釈と個性が光ることもあります。

スイスのHatHutレコードからは『Japan Piano 1996』、『Jo Kondo Works for Piano』、『Luc Ferrari Piano & Percussion Works』といったソロアルバムをリリース。『Luc Ferrari』は英誌『The Wire』で2011年度のベスト10に選出されるなど国際的な評価も受けています。ドイツのエディション・フンデルトマルクからは『Satoko Plays Mieko Shiomi』がリリースされています。これらソロアルバムに加え、アンサンブルや他の演奏家との共同録音も多数発表しています。

受賞と教育

井上郷子氏は、その顕著な活動に対し、2010年に「井上郷子ピアノリサイタル#19〜モートン・フェルドマン作品集〜」の成果をもって、第10回佐治敬三賞（サントリー芸術財団）を受賞しました。これは現代音楽の演奏活動に対する重要な評価と言えます。

また、後進の指導にも力を注いでおり、国立音楽大学の教授として演奏・創作学科コンピュータ音楽専修で器楽表現（ピアノ）を教えています。

国内外の主要な音楽祭にも招聘されており、秋吉台国際20世紀音楽セミナー＆フェスティバル、ISCM世界音楽の日々、ブールジュ実験音楽祭（フランス）、ダルムシュタット夏期音楽セミナー（ドイツ）など、著名なフェスティバルに出演しています。

もう一度検索